こんにちは。冨樫純です。
「記憶のかたち」についてのコラムを紹介します。
「記憶の歴史学」と呼べる研究領域があるそうですが、記憶はやはり、主観的で不正確なので、歴史と認識しにくいとぼくは思います。
歴史の側から記憶へと越境する試みもある。
歴史学では、記憶は、これまで一般的に、他の史料とともに歴史の素材の1つ (しかもあまりあてにならないもの)ととらえられるか、主観的で不正確な前科学的な歴史認識と見なされるかのいずれかであり、いずれにせよ記憶と歴史は明確に区別されてきた。
最近になって、歴史そのものを記憶の一形態としてとらえる見方が歴史学のなかから現れてきている。
歴史学者によって編集された 「記憶のかたち」 (阿部ほか編 1999)は、過去を認識しようとするあらゆる営み、そしてこの営みの結果、得られた過去の認識のあり方(阿部ほか編 1999: 7) を 「記憶」と呼び、学術的な歴史もまた記念行事や銅像などと並ぶ「記憶のかたち」 の1つとしてとらえている。
そして、これらの「かたち」にはいかなる過去の認識のあり方が表現されていたのか、これらの「かたち」 はいかなるプロセスを経て成立したのか、これらの「かたち」を人々はいかに受容し、 いかなる意味を見出したのか(阿部ほか編 1999: 5) が問われる。
これらの問いは「記憶の歴史学」と呼べる研究領域を切り開くものである。
下記の本を参考にしました
『社会学』
新版 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一 他2名