こんにちは。冨樫純です。
「ある詐欺師の行為と表現のジレンマ」についてのコラムを紹介します。
世の中には色んな詐欺師がいると思いますが、その中でも、かなり変わった詐欺師だと思いました。
それにしても、片桐つるえはなたぜもっと以前に逃げ出さなかったのか。
600万の全額は不可能にしても、ほどほどのものを貯めて、危険がくる前に逃げてしまえばよかったのではないか。
その疑問を解くには、彼女が期し取った金でどのような生活をしていたか、どのような物を買っていたかを見ることが必要かもしれない。
洋服、白桃、煙草、ライター、商品券、お布施といったものはもとより、魚代、肉代、天塾羅代、ビール、ウイスキーといったものまで、そのすべては他人にあげるためのものばかりなのである。
毎日のようにいくつもの包みにわけて惣菜を配って歩いた。
実に彼女は「奪う者」ではなく、「与える者」なのだ。
それらのすべてが詐欺するための布石だったとは考えにくい。 ではなぜなのか。
おそらく、この膨大な贈物は 「金持ちの素晴らしいおばあさん」 という役割りを演じつづけるために、どうしても必要だったのだ。
編し取った600万円余のうち、自分のために使ったのは、たった88,000円だけだったという。
「久留米耕80,000円 西条屋 ショール止 8,000円 梅木時計店」
詐欺の報酬がたった「久留米耕」と十八金の「ショール」1個だったということは、極めて印象的なことである。
詐欺をすることで賛沢をするつもりは初めからなかった。
彼女は自分が演じている役柄が、とても気に入っていた。
後に「おれは悪いよ、でもみんなだって欲の皮かぶりだよ」と述べているように、もちろん自分の役柄への冷ややかな視線は持っているにしてもである。
逃げるチャンスはいくつもあった。
金がまとまって入っていた時期もあった。
それなのになぜ逃げなかったのか。
理由はひとつ、彼女はできるだけ長くこの奉還町に居つづけたかったのだ。
その頃、わたくしは、銀座の億万長者ということ
で、この一帯でたいそうな評判でございました。
彼女を中心にして町が動き、背中に熱い視線を感じる。
その中で、全く新しい自分の役を生き生きと演じつづけることが最上の張り合いとなっていた。
金が少なくともこの時点では目的でなくなっていた。
沢木耕太郎「人の砂漠」(沢太[1977] 1980: 500-02)
下記の本を参考にしました
『社会学』
新版 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一 他2名