とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

すべての人間関係は売春である

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


すべての人間関係は売春である

 


なぜ売春は合法化されないのだろうか?

 


売春合法化に反対する議論にはなんの根拠もない

が、これまで権威ある学会から「非科学的な議論はご遠慮ください」と批判されたことはいちど

もなかった。

 


売春のようなセックスの売買と、パイーミルクのようなそのほかの取引とのちがいは、「性を買う」ことについてわれわれが感じる、あるいは感じさせられるある種の羞恥心に関係している。

 


よく知られたジョークをひとつ紹介しよう。

 


あるハンサムな男性が魅力的で貞淑な女性を、 「一億円出すから僕と寝てよ」と口説いた。

 


彼女はこの申し出に仰天するが、そのあとで考え直す。

 


「お金で寝るのは売春婦と同じだけど、そのお金を慈善事業に寄付するとか、世の中の役に立つことに使ったりとかできるじゃない」

 


その男性はチャーミングだし、あやしげでもなければ、不愉快でもない。そこで彼女は恥ずかしそうに、「いいわ」とこたえる。

 


次に、男性はこう訊ねる。

 


「だったら一万円でどう?」

 


彼女は激怒して、「よくもそんなことが言えるわね。 わたしをどんな女だと思っているの!」

 


と、男の顔を平手で叩く。すると彼は、こうこたえるのだ。

 


「君は金で寝る女だろ。自分でそう言ったじゃないか。だから僕は、値段の交渉をしようとしただけなのに」

 


言うまでもなく、この男が放つ言葉の暴力は、セックスを売ることに対する世間の侮蔑を背景にしている。

 


「性を売買するのは堕落である」と信じる人たちに対抗する方法は二つある。

 


ひとつは正面攻撃で、 「セックスを金で買うのは間違っている」という信念をただ否定するのである。

 


だがこれでは、売春を不道徳だと見なす人々を納得させることはできないだろう。

 


もうひとつの方法は、わたしたちは常に―だれもがいつでもセックスを金で買っており、それゆえプロの売春婦と客のやりとりにケチをつける資格はない、と示すことである。

 


わたしたちが性的活動を行う際、常に取引や金銭の支払いが発生していると、どのような意味で言えるのだろうか?

 


少なくともわれわれは、セックスについて合意する前に、パートナーに対してなんらかの申し出をしなければならない。

 


売春においては、この申し出は現金の提供によって行われる。

 


それ以外の場合は、取引はそれほど明示的ではない。だがデートマニュアルのほとんどは、明らかに売春モデルに基づいている。

 


男性は映画やディナーや花束などに金を支払うことが期待され、女性は性的サービスの提供で報いることが期待されている。

 


結婚についても、夫が経済的側面を担い、妻がセックスと家事労働を担当するのであれば、売春モデルとなんのちがいもない。

 


わたしがここで言いたいのは、恋愛から学問にいたるまで、人間同士の自発的な関係はすべて取引だということだ。

 


ロマンティックな恋愛や結婚においては、取引は愛情や思いやり、やさしさなどを介して行われる。その取引は幸せなものであろうし、互いに与え合うことに喜びを見出すであろう。

 


しかし、それでもやはりこれは取引なのである。

 


冷酷な相手に愛情や思いやりを一方的に与えているだけでは、報われないことは明らかである。

 


取引のあるところには報酬がある。夫婦にせよ、恋人同士にせよ、そこにセックスと報酬の関係があるのなら、それは言葉の定義上、売春の一種なのである。

 


この世のすべての取引は、セックスの有無にかかわらず売春の一形態である。

 


売春と類似するからといって、これらすべての関係を否定するのは馬鹿げている。

 


そうではなくて、売春を人間の行う相互作用のひとつにすぎないととらえるべきである。

 


結婚についても、友情についても、売春についても、それでなんの異論もないはずだ。

 


感想

 


恋愛から学問にいたるまで、人間同士の自発的な関係はすべて取引だということだという箇所がおもしろかったです。

 


売春も取引なので、非難されることはないという、そうかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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