こんにちは。冨樫純です。
「孔子の女性観」についてのコラムを紹介します。
女性蔑視は現代でも残っていますが、この時代から存在していたことに驚きました。
少しきわどい話をしましょう。
孔子の女性観です。
現在、書店にはたくさんの『論語』解説書があふれています。
ただ、その多くは、「論語」の名言名句を紹介するだけで、孔子としてはふさわしくないような言葉については、見て見ぬ振りをします。
そこで、あえて次の言葉を取り上げてみましょう。
唯だ女子と小人とは養い難しと為す。(『論語』陽貨篇)
女子と小人が養いがたいものとして否定的に説かれています。
その理由として、孔子はこう続けます。「親しく近づけるとつけあがるし、遠ざけると怨む」から。
この言葉は、孔子の女性蔑視を示したものではないかとして、あまり人気がありません。
今から二千数百年前の中国は、厳しい階級社会であり、男性中心の社会でした。
孔子の率直な気持ちが表れているとも言えましょう。ただ、孔子を偉大な聖人とする立場からは、言ってほしくなかった言葉です。
そこで、最近、新解釈が登場しました。
現在、中国でも韓国でも儒教は再評価されています。文化大革命の頃には、封建的な思想として孔子は弾圧されましたが、道徳の急速な類廃をうけて、孔子は復活を遂げつつあります。孔子の思想の力を借りて、社会を安定させようとしているわけです。
数年前、「儒教」をテーマとする国際学会が韓国で開催され、私も招待されて参加しました。
その学会も、古代中国の思想を実証的に研究するというよりは、儒教の現代的な一意義を探り、孔子の再評価を進めるという雰囲気が濃厚でした。
そして、ある有名な中国人研究者から衝撃的な発表があったのです。
それは、右の孔子の言葉を取り上げて、次のように解釈すべきだというものでした。
唯だ女子の小人の与きものは養い難しと為す。
参考までに、ここの原文(白文)を示すと次のようになります。
通常は、「女子」の後の「奥(与)」は、「と」と読み、直前と直後の語を結ぶ言葉として理解されます。英語で言えば、接続詞の「AND」です。高校漢文でも、これは必須の句法で、大学入試でもよく出題されます。
ところが、その中国人研究者は、この「与」は、「と」ではなく、「ごとし」と読むべきだとするのです。
そして、この一文は、「女性の内で、小人のようなものは、養いがたい」という意味だと主張しました。
こう読めば、孔子が女性全般を批判しているのではなく、女性の中のごく一部、小人のようなできの悪い女性だけを批判していることになるのです。
会場にどよめきが起こりました。
儒教と孔子を再評価しようとする国際学会にふさわしい発表です。
発表者は、二千年にわたる儒教の不当な評価が、これによって解消される、と豪語しました。
しかし、どうでしょう。これはいかにも苦しい解釈ではないでしょうか。
確かに、多くの漢文の用例をひろっていくと、「与」を「ごとし」のような意味でとることのできるものもあるようです。
でも、少なくとも「論語」には、そのような用例は他に一つもありません。
孔子が本当に「ごとし」の意味で言っていたのであれば、通常、それを表す「如」とか「若」などの漢字で記せば良かったはずです。
わざわざ「与」と書く必要はなかったのです。
というわけで、会場の興奮とはうらはらに、私自身は、この解釈が成り立つ可能性はきわめて低いと感じました。
ただ、孔子が女性蔑視を表明していると単純にとらえるのも、間違っていると思います。たとえば、育児をしてみるとよく分かりますが、自分の子どもでありながら、「養いがたい」と思うことはしばしばです。
風邪もひくし、怪我もする。学校で喧嘩をしたり、宿題を忘れたりする。何とも養いがたい。
ただそれは、わが子に対する愛情と表裏一体なのです。養いがたいから蔑視しているとは言えないのではないでしょうか。
下記の本を参考にしました
超入門『中国思想』
湯浅邦弘
だいわ文庫