こんにちは。冨樫純です。
「宥坐の器(ゆうざのき)」についてのコラムを紹介します。
何事もほどほどがいいと言われることがありますが、ここから来ているようです。
栃木県足利市に国指定史跡「足利学校」があります。日本最古の学校遺跡とされています。
一説によれば、天長九年、平安朝のはじめに小野篁(おののたかむら)によって創建されたと伝えられています(諸説あり)。
境内には、孔子を記る孔子廟もあり、重要資料35000冊を保管する遺蹟図書館もあります。
さらに注目したいのは、「宥坐の器」です。
『荷子』宥坐篇にこんな話が載っています。
孔子が魯の桓公の廟を参拝していると、傾いた器がありました。孔子が廟の管理人に聞きました。
「これは何という器ですか」
管理人が言うには、「これは宥坐の器というものです」
孔子は言いました。
「私は聞いています。宥坐の器とは、空の時には傾き、ほどよい水位で正しくなり、いっぱいになるとひっくり返ってしまうと」
孔子は振り返って、水を注ぐように言いました。
弟子が水を汲んで注いだところ、孔子の言葉通り、ほどよい水位で正しい位置となり、さらに水を注ぐとひっくり返り、空になって傾きました。
孔子はため息をついて感嘆して言いました。
「ああ、どうしていっぱいになってひっくり返らないものがあろうか」
弟子の子路が言いました。
「あえてお伺いします。いっぱいの状態を保つ方法がありましょうか」
孔子は答えて言いました。
すばらしい智恵のある者は、これを守るのに愚を装い、功績が天下を占めるような場合には、これを守るのに譲るということを旨とし、勇気やカが世をおおうような場合には、これを守るのに臆病な態度を取り、富が世界を保有するほどである場合には、これを守るのに謙遜を旨とする。
これがいわゆる抑えて減らすという方法です。
これが有名な宥坐の器の話です。宥坐とは身近に置いて戒めにするという意味。
荀子は、孔子の故事を借りて、「中正」の重要性を説いているのです。いっぱいいっぱいの状態が危険だという思想は、老荘思想にも通ずる点がありますが、ここで荀子が言っているのは、老荘的な無為の教えではありません。
「中正」、つまり、ほどよいという意味で、別の言葉で言い換えれば、「中庸」ということでしょう。
仲尼は己甚だしきことを為さざる者なり。(「孟子」離婁下篇)
孔子は過激なことをしない、中庸をわきまえた人であったという意味。
宥坐の器は、中正の大切さを表しているとともに、孔子その人の生き様をも象徴していたのです。
そして実は、この宥坐の器が足利学校に置かれているのです。一つは、孔子廟に向かって左側の遺蹟図書館。その中の貴賓室にあります。ただ、これは写真撮影禁止で、特に案内文書も掲げられていません。
もう一つは、孔子廟向かって右側の方丈。かやぶき屋根·寄せ棟造りの建物で、この中にある宥坐の器には、実際に水が張られていて、ひしゃくで水を注ぐ体験ができるようになっています。
方丈の隅に置かれているので、これに気づく人が少ないのは残念です。
なお、宥坐の器は、足利学校の場合と同じように、孔子廟に置かれることが多いようです。
中国山東省 曲阜(孔子の生まれ故郷)にある立派な孔子廟にも、台湾台北市の孔子廟にも、この宥坐の器が置かれています。日本でも、湯島聖堂(東京都文京区)や多久聖廟(佐賀県多久市)などにあります。
そんな中で、特に足利学校の宥坐の器を紹介したのは、現地で水を注ぐ体験ができるということ以外に、いながらにして、バーチャルな体験もできるからです。
足利市の公式ホームページをご覧ください。
そこには、何と「宥坐の器」というページがあり、ここで簡単なマウス操作によって器に水を注ぐ体験が、パソコン上でできるのです。
両側の紐によってつリ下げられた器は、はじめ少し傾いています。水を注ぐと徐々に水平に近づき、ほどよい水位できれいな水平となります。そしてさらに水を注ぐと器がひっくり返って水がすべてこぼれ落ち、もとの空の傾いた状態に戻る、という仕掛けです
下記の本を参考にしました
超入門『中国思想』
湯浅邦弘
だいわ文庫