こんにちは。冨樫純です。
「一億総中流社会」についてのコラムを紹介します。
機会が平等で、人々が公正に競争し、結果に差が生じるのは仕方がないことだとぼくも思いました。
あなたは自分を「上流」「中流」「下流」に分けるとどの階層に属すると思いますか、と聞かれたときどう答えるだろう。
「中流」と答える人が圧倒的に多いのではないだろうか。
ごく近年まで、日本は平等な一億総中流社会であるというイメージが持たれてきた。
しかし 2000 (平成12) 年には、新聞や雑誌、メディアにおいて日本の中流社会は崩壊したのではないかという、「中流崩壊」論争が盛り上がったのである。「中央公論」編集部, 2001)
日本の経済格差は、はたして拡大してきているのだろうか。専門職や管理職等に就く社会的エリートの地位は、親から子どもへと「相続」される度合いが高まってきたのだろうか。
そういえば、社会のいろいろなところで二世の活躍が目立っているような気もする。
中流崩壊論争は私たちに直接かかわる問題であり、論争にも熱が入るのである。
この論争においては、いくつかの有力な例外はあったものの、中流社会の崩壊を望ましくないものとする考え方が多数であった。
この問題は、社会における平等をどのように考えるかという問題でもある。
人々に同じように成功するチャンスが与えられた(機会の平等)上で、人々が公正に競争し、結果に差が生じるのは仕方がないことである。
あるいは、才能のある人や努力した人が報われるのは当然のことであり、それが公正な社会のありようだとも考えられる。
しかし、結果の平等を考慮する必要が全くないという意見は、やはり少数派である。
一方において億万長者がおり、他方でホームレスが町にあふれ、飢えてバタバタ死んでいく社会を、望ましいと考える人は少ないだろう。
福祉国家は、すべての人々が最低限度の人間らしい暮らしを送ることができるような社会を目的として生まれてきたといえる。
下記の本を参考にしました
『政治学』補訂版
(NewLiberalArtsSelection)
久米 郁男 他2名
有斐閣