とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

現代人の自由

こんにちは。冨樫純です

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


現代の大都市人の大きな自由

 


貨幣によってもたらされる自由はこの場合、お金で租税を支払いさえすれば、あとは〈お上〉にとやかくいわれることなく自分の私生活の楽しみを追求できるというかたちで実現する。

 


王や領主といった「特定の他者の意志」からの自由が、まず庶民の自由獲得の第一歩であった。

 


この文脈でいえば、ジンメルによれば、「現代の大都市人」が大きな自由を獲得しているわけだ。

 


彼らは「言葉の積極的な意味で独立」した存在だ。もちろん彼らの生活には社会的分業がもたらす独特の「依存関係」が成り立っている。

 


なるほど彼は[=大都市人]無数の供給者と労働者と協力者とを必要とし、したがって彼らなくしてはどうすることもできない。

 


しかし、彼は、彼らとはただ貨幣に媒介されて全く事実的に結合しているのみであり、したがって彼はこの特定の個人としての誰かある個人ではなく、ただ貨幣に値する[他者の]客観的な行為遂行のみに依存しているのであって、この行為遂行はまさに任意の交替する人格によって担われることができるのである。

 


おなかを空かせた「都会人」がお金をもって「マクドナルド」に入ったとする。するとそこでは店員の女の子がとびきりの笑顔とあいさつで迎えてくれる。

 


彼女の笑顔はたしかに自分に向けられたものだが、彼個人だけに向けられるものではないことを彼は知っている。

 


「私でなくても店に入ってお客であればだれにでも彼女は同じような笑顔をふりむけるだろう」と彼は思うのだ。

 


一方彼にしてみても、その店だけが唯一の空腹を満たす場所ではない。なにも「マクドナルド」でなくても、ハンバーガーがもし食べたいのであれば、「ロッテリア」「ドムドム」あるいは「モスバーガー」といろいろと選択肢があるのだ。

 


社会的分業の進展は、非人格的、事実的な相互依存の連関を複雑に形成する。

 


そのような種類のネットワークの網の目に私たちは生きているのだ。

 


感想

 


貨幣によって、わたしたちはつながっているが、それは代替可能であるという見方がおもしろかったです。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス

 

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あらためて貨幣とは何か考えてみる

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル あらためて貨幣とは何か考えてみる

 


これまでの章で私は、いろいろな側面から現代社会に生きる私たちのへつながり〉のあり方を検討してきた。ここであらためて次のことを考え直してみよう。

 


そもそも私たちが社会の一員として日常的な生活を営む際は、いったい何を基本的な手段として社会と関わっているだろうか?

 


一つにはもちろんゴ言葉(=言語)」である。

 


人間は言葉を操り、言葉を頼りにしてコミュニケーションを重ねてきた。

 


そしてさまざまな制度や権力の構造を作り上げてきた。そしてもう一つ、とりわけ近代以降の人間関係において重要な基本的媒体となっているものがある。

 


それが「お金(=貨幣)」である。「お金」はいまや現代を生きる私たちにとって生活の基盤を形作りながら、同時に社会的関係の基本にも位置づけられる。

 


さらに、「お金」に対してどのような価値的態度をもっているかをによって、その人がどのような他者とどのような種類の関係を作っているかという他者関係の基本が決まってしまうような側面がある(ごく単純な例をあげれば、「お金がすべて」と考えれば、やはりそういう価値観の人間どうしがつながるだろうし、「お金もそれなりに大切だが、お金以外の何かをも求めたい」と考えていれば、そういうかたちで他者とのつながりができていくということがある。そしてそのことが彼(女)の生活全般の成り立ちにも大きく影響を与える場合が多いのだ)。

 


だから私たちが社会とのつながりをとらえ直そうと考える場合、私たちにとって、お金(=貨幣)とは何かということをきちんと考えることは必要不可欠のことだといえるだろう。

 


感想

 


当たり前のことを言っていると思いますが、改めて言われると、やはり影響力が大きいと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス

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闘争を肯定的に捉える

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル リアリズムの立場に立つ闘争論

 


アメリカの「ローカルな」価値観を「グローバル・スタンダード」という いい方で絶対視するような安易な競争絶対主義はたしかに批判されるべきだが、しかしだからといって、「絶対平等」の観点に立って〈競争=悪〉という考え方に偏るのもまたおおいに問題がある。

 


どちらの立場も、私たちが生きていくなかで幸福の条件を模索する際の足がかりを準備するような考え方ではない。

 


ジンメルは、矛盾や対立や反対や競争といったいのが全くなくなることが社会にとってめざすべき理想なのではなく、そうした要素が社会が発展的に動いていくためのダイナミズムの核とできるかどうかが、その社会がに熟しているか否かの試金石になるという考え方を提示している。

 


私はこうした考え方はとても大切だと思う。

 


「調和」や「統一」、あるいは「共同」や「一体」―こうした人間どうしのつながりに肯定的なイメージを与える言葉に依拠し、現実の社会を批判しようとする考え方は枚挙にいとまがない。

 


現代社会は「調和」や「統一」を失ったバラバラの個人のたんなる集合体であり、人間どうしの「一体」性が解体した非人間的な組織体であるといった考え方がその代表的なものだ。

 


しかし近代以降の社会をこのような観点から「全否定」するような発想では、ただ「こんな社会は間違っている」という社会に対する不全感の表出だけに終わり、何が歴史的に達成された成果で何が解決していくべき問題なのかとか、私たちの社会を内側からだんだんよくしていくにはどのような道筋を描いたらよいのか、といった考え方の方向性を見失わせることになると私は考える。

 


闘争(あるいは競争)を考えるにしても、それらを頭から否定してしまうのではなく、闘争が社会の関係の形式としてどのような特質をもっているのかキチンと明らかにして、その上で何が問題になるのかということを明らかにしなければならないはずである。

 


つまり、競争や闘争を否定するのではなく、どのような種類の競争や闘いなくしていかなければならないか? というかたちで現実の問題は考え直されなければならない。

 


そしてそのことが〈私〉の立場から社会の問題につなげて考えていく道筋を失わない社会認識の深まりを可能にする―そのようなある種の〈リアリズム〉の立場に立った競争や闘争への理解・分析がこれからますます必要になることは明らかだろう。

 


ジンメルの「闘争」論はそうした作業を行なう際の基礎的視角を私たちに与えてくれているのだ。

 


感想

 


「調和」や「統一」、あるいは「共同」や「一体」―こうした人間どうしのつながりに肯定的なイメージを抱きがちだと思いますが、その逆を肯定的に捉えるというのはなかなかできることではないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス

 

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敗者復活が難しい社会

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


現実の競争の問題点―ルール設定の確立

 


基本的な問題点について指摘しておこう。

 


それはルール設定に関することである。

 


日本の現実においてはこのルール設定が実にあいまいになされていることが非常に多い。

 


事実的な競争の条件としては、第一にルールの設定は(さまざまな委任や委託といった媒介はあるにしても)基本的には、競争に参加するメンバーの合意に依っていることが挙げられる。

 


さらにルールや評価基準の明確化、競争に参入する際の「機会の平等」性などが問題になる。

 


こうした観点から見ると私たちの社会においてなされる競争は実に大きな問題を抱えていることがわかる。

 


たとえば、このところ声高に叫ばれている「グローバル・スタンダード」による「能力主義」の導入にしても、まず第一に雇われている人間を評価する方法や基準のルール設定について、労使が話し合いの下に合意して導入されている企業がどれくらいあるだろうか。

 


いわば経営者側の一方的な押しつけになっている場合が多いのではないだろうか。

 


第二にもし能力がないと判断され、最悪の場合リストラの対象になったとすると、いまの日本では(とくに私のような中年になればなおさら)再就職の機会が非常に困難だ。

 


ココでダメならアチラでがんばろうといった意欲を保つことが著しく困難なほど雇用の多様化・流動化(=敗者復活のチャンス)が準備されていない。

 


さらに、そうした能力の判定にしてもその判断基準がキチンと開かれているかどうかはなはだあやしい。また、部下に対する上司の恋意的・主観的好悪の感情によって評価がなされる危険性についてのチェックも甘いようだ。

 


総じてこうした状況で「能力主義」による「競争原理」でもって社会を動かしていくことは、そこで賃金を得て生活する大部分の人びとの「生」にとって著しい不利益を帯びさせる危険性がある

と私は考える。

 


感想

 


日本は、一度レールを外れたら、敗者復活が難しい社会だと言われますが、確かにそうだと思いました。

 


ぼくも転職した経験がありますが、新卒で最初の就職が、一番待遇が良かったと思います。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス

 

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嫉妬と羨望の違い

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


「嫉妬」の感情―相手そのものに対する敵対性

 


ジンメルが示す例のなかで最も興味深いのは、「嫉妬」の分析だ。

 


ジンメルによれば、嫉妬は「外見上はまったく個人的なものであるが、実際には社会学的にみてきわめて重要な事実」である。

 


嫉妬という心情は、「密接な共属性」と「激しい敵対的な興奮」が結び付いて起こる。

 


私たちは身近な人に嫉妬するのであって、自分とはあまりにもかけ離れた環境に属する人がどんなに恵まれていようとその人に嫉妬することはない。

 


もっとも、あの人恵まれていていいなあという場

合はある。それはたんなる「羨望」だとジンメルはいう。

 


嫉妬とは、精神的なものであれ、物質的なものであれ、その人の所有しているも ものに対して涌きあがる感情ではない。

 


嫉妬とは、ひと言でいえば、「なんで自分ではなく、彼、彼女が(それを)もっているんだ」という感情である。

 


羨望の場合は、所有物が問題なのだが、嫉妬の感情では所有者が問題になる。

 


たんに所有物をうらやんで対抗意識をもつ以上に、嫉妬の感情は相手そのものに対する敵対性を大きくし、際限のない敵意に発展する可能性があることがわかる。

 


しかも厄介なのは「あんなに愛していたから」とか「あんなに欲しかったから」といった自己正当化を容易にし、しかもそれが社会的にも受け入れられる(ジンメルの言葉では「権利要求」が認められる)可能性が高いということである。

 


だから人は嫉妬の感情から簡単に自分を解放することができないのだ。「嫉妬は最も激情的な憎悪を、同時に存続している最も激情的な愛情と結び付ける」とジンメルは考える。

 


感想

 


嫉妬と羨望の違いがおもしろかったです。

 


嫉妬には敵対的感情があるという箇所が特に説得力があると思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス

 

競争が社会集団を活性化する

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 競争が社会集団を活性化する

 


さて、次に社会集団の活性化という観点から競争の利点を見てみよう。

 


まず、なにより競争においては、ある共通の目的的価値をめぐって各人が努力することにより、全体的なレベルが上がるということが可能になる。

 


さらにジンメルによれば、社会の指導的立場にあるものどうしの競争においては、「大衆」が何を欲しているかについての「鋭敏な感覚を研ぎ澄ます」ことが彼らに要求されるという。

 


つまり社会の指導者層が大衆にかかかるという事態が生じやすい。

 


しかし大衆がいま何を欲しているかに対する鋭敏な感覚を要求されることは、政治や経済、文化・芸術などの総体が大衆の欲望から切り放されたかたちでは成り立たないということを意味する。

 


だから、「現代の競争」は、「万人の万人に対する闘争」といったホッブス的状態を保ちながらも「万人のための万人の闘争」という性格を同時に合わせもつとジンメルは指摘する。

 


もっと一般的にいえば、競争に勝つためにはまず相手をよく知ることが必要になり、さらに、第三者の支持を目的とする競争の場合は(たとえば、資本家どうしの競争)、相手ばかりではなく、支持を期待する人たち(消費者としての大衆)の欲求や関心への細かい配慮が必要になる。

 


感想

 


現代では競争が活性化をもたらすことは当たり前の考え方ですが、ここからきているのかと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス

 

子どもの貧困

こんにちは。冨樫純です。

 


本を紹介します。

 


①この本を選んだ理由

 


以前から、この問題が気になっていたので、読んでみようと思いました。

 


②こんな本です

 


『子どもの貧困』日本の不公平を考える

 阿部 彩著

 岩波新書

 

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健康、学力、そして将来…。

 


大人になっても続く、人生のスタートラインにおける「不利」。

 


OECD諸国の中で第2位という日本の貧困の現実を前に、子どもの貧困の定義、測定方法、そして、さまざまな「不利」と貧困の関係を、豊富なデータをもとに検証する。

 


貧困の世代間連鎖を断つために本当に必要な「子ども対策」とは何か。

 


③こんな言葉が印象に残りました

 


すべての子どもが享受すべき最低限に必要なものとは何であろうか。

 


実は、それが貧困基準そのものなのであるが、ここまでは、世帯所得が社会全体の中央値の50%といった抽象的な貧困基準を用いて議論をすすめてきた。

 


ここでは、一歩戻って、社会がすべての子どもに保障すべき最低限の生活は何かという点について、「相対的剝奪」(デプリベーション)とよばれる手法を用いて描写していきたい。

 


「相対的剝奪」は、イギリスの長い貧困研究の中で育まれてきた手法であるので、その説明のために、少々、学術的な回顧を許して頂きたい。

 


イギリスの著名な貧困研究学者のピーター・タウンゼンド(1928年〜)は、人間の最低生活には、ただ単に生物的に生存するだけではなく、社会の一構成員として人と交流したり、人生を楽しんだりすることも含まれると論じた。

 


彼はそれができない状態を「相対的剝奪」(rela-

tive deprivation)と名付け、「人々が社会で通常手にいれることができる栄養、衣 服、住宅、住居設備、就労、環境面や地理的な条件についての物的な標準にこと欠いていたり、一般に経験されているか享受されている雇用、職業、教育、レクリエーショ 家族での活動、社会活動や社会関係に参加できない、ないしはアクセスできない」状態と定義する (Townsend 1993,訳は芝田 1997)。

 


そして、タウンゼンドは、「週に一回は肉または魚を食べることができる」など基本的衣食住を表す項目から、「年に一回は旅行に行くことができる」「友人を家に招待する」など社会的な項目まで、60の項目をピックアップし、それらの充足度を測ることによって「剝奪状態」にある人の割合を推計した。

 


これが、イギリスにおける60〜70年代の「貧困の再発見」である。

 


タウンゼンドはまた、人々の困窮の度合いを測る「ものさし」として社会のほかの人の生活レベルを用いるという相対的概念を、それまで絶対的なものとして捉えられていた貧困概念に持ち込んだ。

 


これが、「相対的貧困」の始まりである。人が尊厳をもって生きるためには、その社会に相応の生活レベルが必要であり、それが満たされない状態を「貧困」として再発見したのである。

 


(本文より引用)

 


④この本が気になった方への2冊はこちら

 


『弱者の居場所がない社会』

 貧困・格差と社会的包摂

 阿部 彩著

 講談社現代新書

 


『子どもの貧困II』

 解決策を考える

 阿部 彩著

 岩波新書

 


興味を持ってくれた方はいるでしょうか?

興味を持った方は、是非読んでみてください。