とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

公正世界仮説とは

こんにちは。冨樫純です。

 


公正世界仮説と帰属」についてのコラムを紹介します。

 


悪い人や落ち度がある人に悪い出来事は起き、どちらでもない自分はそのような不運に出あわない、

というくだりが、特に面白く読めました。

 


あることが起きる背景にはいろいろな事が関わっている。

 


どのような状況だったかということも重要な要素である。

 


しかし、人は行為者自身の特性に原因を帰属する傾向がある。

 


根本的帰属エラーと呼ばれるこのバイアスは、1つにはそう考えることが心地よいあるいは収まりがよいからである。

 


状況を構成するものは時間的にも空間的にもあまたあり、定義からしてそのすべてが1つに定まることは決してない。

 


運命や機会やそのときの気象など不安定的不確実なものに帰属するより、ある出来事を行為者の何かに帰属した方が予測可能性が高まり心理的に落ち着く。

 


悪い出来事が運で起きるのであれば、次は自分の番かもしれないことになり、そのような世界にいると考えることはつらい。

 


そうではなく、悪い出来事はその当事者が悪い人だから、よい出来事はその当事者がよい人だから起きるのであり、人は人生においてその人にふさわしいものを手にすると考える(公正世界仮説; belief in a just world) (Lerner, 1980)のであれば、自分の世界に不運や不幸が突然侵入しているかもしれないという心理的脅威から逃れることができる。

 


公正世界仮説は、「努力すれば必ず報われる」「徳を積めばいいことがある」という信念となり、よいことに向けての自分の勤勉さや善行の教育的奨励を推し進める方向に働く。

 


笠地蔵や舌きり雀など昔話には、道徳的メッセージとともに公正世界仮説を教え説き、社会で共有されるよう促進しているものが少なくない。

 


とくに、すぐに成果が出ず長期にわたる修行・努力が必要なものは、いつか望むものが手に入り努力が報われる世の中だと信じなければなかなかで

きるものではない。

 


長期的目標を社会的に追究することと公正世界仮説は密接に結びついている(Hafer & Rubel, 2015)。

 


他方、公正世界仮説を維持しようとして、望ましくない出来事では、「そうなったのは当人のせいだ」と考えるため、犯罪や事件・事故の加害者をより強く「未熟だ」などと非難して非人間化し、また犠牲者に対しても責めを負わせる理不尽さを示すことがある(村山・三浦, 2015 参照)。

 


たとえば、性犯罪の犠牲者はそれだけでも同情が寄せられてしかるべきであるのに、「隙があっ

た」「挑発的な服装だった」などと人格的な非難が投げつけられ(Abrams etal, 2003), ときには遡って前世で非があったと咎められ、因果応報・自業自得とされてしまう。

 


なぜこのような反社会的な犠牲者非難(victim blaming)がなされるかについて、カラン(Callan et al., 2014)の研究は1つの回答を示唆している。

 


悪い人や落ち度がある人に悪い出来事は起き、どちらでもない自分はそのような不運に出あわない、そういう公正な世界にいるとより強く信じることができる。

 


ドメスティック・バイオレンスや強姦、痴漢などのニュースを聞いた際、何か犯人を刺激するようなことをしたのではないか、いじめの場合にはいじめられる方にも弱さや偏りがあるのではないかなどと被害者を疑うのは、そこに原因を帰属させることによって、誰でも被害者になりうるというランダム性を否定し、自分の安全性を確かなものと信じて心理的安定を得るための方略であるといえるだろう(村山, 2015)。

 


下記の本を参考にしました

 


『心理学』新版

   無藤 隆 他2名

   有斐閣