こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学や法哲学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「小さな政府」と「市場原理主義」
1970年代のアメリカはベトナム戦争の泥沼に苦しみ、洪水のような日本製品の流入で貿易赤字が膨らみ、経済は停滞し株価は地を這うばかりで、社会はどんよりとした閉塞感に覆われていた。
だれもが「改革」の必要性を感じていたが、なにをどうすればいいかわからなかった。
バブル崩壊後の日本社会でも同様に、地価と株価の暴落にはじまる出口の見えない不況が延々とつづき、高齢化の不気味な足音とともに言いようのない不安が私たちを襲っている。
中国の台頭と国家の衰亡を嘆く憂国の人々が声を張り上げ、やはりだれもが「改革」を望んでいる。
でも、「改革」っていったいなんだ?
この疑問に対する著者の回答は明快である。
すべての不幸は国家によって引き起こされている。国家が存在しなければ(国家間) 戦争も貿易不均衡も起こらない。
年金制度が存在しないのだから高齢化社会が問題になることはないし、そもそも「国家」の衰亡を憂える必要すらない。
われわれは枯れ木を幽霊と信じて脅える子どもと同じだ。発想を変えさえすれば、コロンブスの卵のように「問題」そのものが消えてしまう。
これはすなわち、「国家観のコペルニクス的転回」である。
「お上」という言葉に象徴されるように、私たち日本人は(というより世界のほとんどの国では、国家(公)を民の上に立ち、人々を善導し、かいがいしく世話を焼き、ときには厳しく罰することもある母親のような存在と信じている。
だがリバタリアンにとって、最大限好意的に解釈しても、国家は市場で提供できない特殊なサービスを「必要悪」として担うだけだ。
国家が国民の福祉を増進するというのは幻想であり、アウシュビッツやヒロシマ、あるいは旧ソ連の強制収容所や中国の文化大革命を見てもわかるように、歴史的事実は、強制力をともなう巨大な権力が、一人ひとりの人生にとてつもない災厄をもたらすことを教えている。
そうであれば、国家が小さければ小さいほど私たちの自由と幸福は増大するはずだ。
人類の理想とは、国家の存在しない世界である主張だ。
これがリバタリアンの第一の主その一方で、私たちは「市場」を弱肉強食のジャングルのようなものだと思い込んでいる。
市場原理主義に支配された社会では「勝ち組」がすべての富を独占し、「負け組」はホームレスとなって路上で死を待つほかない。
これはマスメディアの大好きな構図だが、そこでは国家は暴走する市場に介入し、社会正義を実現するヒーローの役割を演じることになる。
だがリバタリアンによれば、これはとんでもない勘違いである。アダム・スミス以来の経済学が人類にもたらした最大の貢献とは、市場が弱肉強食の残酷な世界ではなく、自由な交換を通してだれもが豊かになれる協働の場所であることを示したことだ。
この自由な市場に国家が干渉すると、その機能は決定的に阻害され、経済的停滞と貧困が人々を襲うことになる。
このことは、1989年のベルリンの壁の崩壊とそれにつづく旧社会主義圏の解体で、歴史的に議論の余地なく証明されている。
「福祉国家」の名のもとに国家が市場に介入することは、かつて旧ソ連・東欧諸国で大規模に行われた破壊行為(いまも北朝鮮では同様の仮借なき破壊がつづけられている)を、規模を小さくして繰り返しているようなものだ。
「市場原理主義」こそが、人々に自由と幸福をもたらす唯一の希望なのである
これがリバタリアンの第二の主張になる。
リバタリアンの描く未来では、「小さな政府」は、仮にそれが必要であったとしても、国防や治安維持などの、限定された役割をたんたんとこなす下請け業者のようなものでしかない。
「市場原理主義」は世界を一部の金持ちと大多数の貧乏人に分けるのではなく、むしろ国家こそが、そのような差別的で不幸な社会をつくるのだ。
国家は、徴税や徴兵によって個人の権利を不可避的に侵害する。公務員は国家に寄生し、吸血鬼のごとくわれわれの血を啜っている。
リバタリアンが唱える「改革」とは、国家に奪われた役割を市場と市民社会の手に取り戻すことだ。
感想
市場原理主義のマイナス面だけが取り上げられがちですが、自由を強調する見方もあるんだと感心しました。
下記の本を参考にしました
『不道徳教育』
ブロック.W 他1名
講談社