とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

政治思想入門

こんにちは。冨樫純です。

 


本を紹介します。

 


①この本を選んだ理由

 


以前から政治思想や政治哲学に興味があり、読んでみようと思いました。

 


②こんな本です

 


『西洋政治思想史』

 宇野重規

 有斐閣アルマ

 

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ソクラテスからサンデルまでの政治思想の流れをコンパクトに描き出す。

 


政治的真理を追究してきた思想家たちの歩みをたどり現代社会における政治のあり方を考える。

 


古代ギリシアにおけるデモクラシーの誕生から20世紀までの政治思想の流れを平易に説明したテキスト。

 


政治的人文主義や共和主義といった、近年活発に議論されている考え方を盛り込み、グローバル・ヒストリーの時代にふさわしい政治思想史を構想する。

 


③こんな言葉が印象に残りました

 


トクヴィルアメリカのデモクラシーが理想的であるといったわけではない。

 


むしろ、デモクラシー社会には固有の危険性があり、これをいかに免れるかが、トクヴィルの課題であった。

 


ただし、平等な諸個人から成る社会がしばしば無秩序に陥ることに警告を発した保守主義とは違い、トクヴィルは権力の集中こそがデモクラシー社会に固有な危険であると考えた。

 


「多数者の暴政」や「民主的専制」とはまさしく、彼の懸念を示す言葉であった。

 


デモクラシー社会において、伝統的な権威は否定されるが、それに代わって社会の多数者の意見が力をもつ。

 


また富と財産の追求こそが人々の関心事となり、物質的快楽へと、社会の価値が均質化する。

 


結果的に、一元化した世論はかつてない権威をもつようになる。

 


(本文より引用)

 


④この本が気になった方への2冊はこちら

 


『現代政治理論』新版

 川崎 修 他1名

 有斐閣アルマ

 


『現代政治学』第4版

 加茂 利男 他2名

 有斐閣アルマ

 


興味を持ってくれた方はいるでしょうか?

興味を持った方は、是非読んでみてください。

 

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最貧国への援助は効果的か

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


リバタリアン VSリベラリスト

 


リバタリアンリベラリストの近親憎悪はより根深いものがある。

 


その構図を思い切って簡略化するならば、両者はアダム・スミスの「見えざる手」の評価をめぐ

って争っている。

 


「見えざる手」が「神の手」ならば、人知を超えた神の意志(市場原理)に人間が介入するのは冒漬でしかない。

 


それに対して「見えざる手」が欠陥だらけならば、市場の失敗を人間が修正して、より幸福な社会になるよう導く必要が生まれる。

 


ここに自由放任主義(レッセ・フェール)と市場管理主義の対立が生まれる。

 


リバタリアニズムリベラリズムの争いは、政治的対立という以上に経済的な論争なのだ。

 


リバタリアン的な経済政策は今日、「市場原理主義」あるいは「グローバリズム」と呼ばれている。

 


リベラルな経済政策のちがいを、アフリカの貧困問題に例をとって考えてみよう。

 


アイルランドのロックバンドU2のボーカリスト、ボノはアフリカ救済の熱心な活動家で、ローマ教皇クリントン米大統領らを説得して最貧国の対外債務を免除する「ジュビリー2000プログラム」を立ち上げ、エイズ治療薬をアフリカの患者に安価に提供する運動をサポートし、アフリカ支援を主要議題に据えた2005年サミットに合わせ、大物スターが参加する無料コンサート「ライブ8」を世界八都市で同時開催した。

 


ボノがアフリカ救済に必死になるのには理由がある。

 


飢餓とエイズ禍のためにアフリカの平均寿命は40歳以下まで落ち込んでおり、1日1ドル(100円)以下で生活する絶対貧困層の数は3億人を超えている。

 


そのうえこの状況は、年々悪化しているのである。

 


古典的自由主義派の著名な経済学者であるロバート・バローは1999年と2001年の2回、アフリカ支援についてボノと話し合った。

 


とくに2回めはボストンで行われたすばらしいコンサートの直後で、バローは26歳になるロックファンの娘とともに、ホテルのスイートルームにボノを訪ねていく。

 


そのやりとりをバローは具体的には書いていないが、このカリスマ的なロックスターに経済学者は次のように言ったと思われる。

 


「ボノ、君の音楽はすばらしいけれど、君の経済学は間違っているよ」

 


アフリカの貧困という破滅的な事態に対して、 ボノのようなリベラルな活動家は、国家の介入によって問題を解決すべきだと考える。

 


最貧国に莫大な援助を行い、対外債務が膨らんで返済不能になればそれを免除し、製薬会社に命じてエイズ治療薬を安価に販売させ、サミットでアフリカ支援を話し合う(最近では、世界の貧しさを克服する意思表示として、手首に白いバンドを巻く運動が広がっているという)。

 


どれもすばらしいことだが、ひとつだけ問題がある。最貧国への経済援助はすでに何十年もつづけられてきたが、ほとんどなんの効果もなかったのだ。

 


それに対してリバタリアン派の経済学者は、アフリカの貧困は国家によって引き起こされたのだから、国家がそれを解決することは不可能だと考える。

 


貧困を解消する可能性は市場にしかないが、先進国の援助がその市場を徹底的に破壊してしまったからだ。

 


ケニアエコノミスト、ジェームズ・シクワチは、ドイツ「シュピーゲル』誌のインタビューでアフリカ救援〟 サミットについて問われ、次のように語っている。

 


「お願いだから、もうこれ以上、援助しないでください」

 


「私たちに必要なのは援助ではなく、健全な市場経済なのです。私たちを、自分の足で立たせてください」

 


感想

 


最貧国への経済援助はすでに何十年もつづけられてきたが、ほとんどなんの効果もなかったのだという箇所が以外でした。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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リバタリアニズム VS保守主義

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


リバタリアニズム VS保守主義

 


文化とか伝統とかを重視する人たちを「コミュニタリアン」と呼ぶようになった。

 


彼らはリバタリアンを(もちろん人権原理主義リベラリストも) 不倶戴天の敵のように罵っているが、その理由は近代主義的なのっぺりとしたイデオロギー(自由はすばらしい!)によって何千年もの歴史に裏打ちされた人類の叡智 (文化・伝統)が根こそぎ破壊されてしまうからだという。

 


だがリバタリアンは、彼ら伝統主義者の存在を否定するわけではない。伝統的な生活を送るのも、その人の自由な人生だからだ。

 


アメリカのような多民族社会において、それぞれの民族(ヨーロッパ系、アフリカ系、ヒスパニック系、中国系など)の文化や伝統を尊重しようというコミュニタリアンの一派を「文化多元主義」と呼ぶ。 リバタリアンは、コミュニティのメンバーが自由に脱退できるという条件さえ満たされれば、文化多元主義者の主張を全面的に支持するだろう。

 


それに対して、一般に「保守主義」と呼ばれるコミュニタリアンは、「その地域にもっともふさわしい文化・伝統が優先して尊重されるべきだ」との主張を展開する。

 


アメリカではそれはキリスト教ギリシア・ローマ以来の西欧文化の伝統であり、日本では縄文・

弥生以来の「やまと」の国の伝統であり、アラブ諸国ではイスラムの伝統になるだろう。

 


彼ら保守主義者の特徴は、たまたまその国(地域)に生まれたというだけで、「本人の意思にかかわらず文化や伝統を守るべきだ」と考えることだ。

 


そしてこれは、リバタリアンの理念と真っ向から対立する(もちろん、リベラリストの理念とも対立する)。

 


このあたりの事情は、アメリカを二分する中絶論争を見るとよくわかる。

 


聖書を神の言葉と見なす保守派(キリスト教原理主義者)にとって、中絶は殺人と同じ許されざる罪で

ある。

 


そのためキリスト教右翼の過激派は、中絶を行う産婦人科医院を爆破したり、中絶医師を襲撃するなどのテロをも辞さない。

 


それに対してリベラル派は女性の人権(自己決定権)をかざして対抗するが、 バタリアンもまた自己所有権を理由に中絶に賛成する。

 


すなわち女性の身体は女性のものであり、胎児が女性の身体に所属する以上、それは女性の所有物であり、自分の所有物をどのように処分しようが本人の自由なのである。

 


この自己所有権(奴隷にならない権利)は近代的自由にとって神聖不可侵のものであるから、この問題ではリバタリアンリベラリストの側につき、保守派に妥協することはない。

 


もっとも、ハイエクのような「保守的な自由主義者」は存在する。彼らは、人が合理的に行動するうえで伝統は必要不可欠であると考える。

 


人生のあらゆる選択の機会において(朝食になにを食べるか、とか) 経済的な損得(効用)をそのつど計算するのは非現実的である。

 


人々が日常生活を伝統的な方法で行うのは、たいていの場合、それが長年の経験と試行錯誤から導かれたもっとも合理的な選択だからである。

 


このように、保守派(自由は伝統に従属すべきだ)とリバタリアン(伝統は自由を制限することはできない)の対立は原理的なものなので、論争によって決着がつくわけではない。

 


だが、近代における「自由」の価値は圧倒的で、「伝統」がそれに取って代われるわけではない (中世の伝統社会に戻りたいとはだれも思わない)ので、保守派は常に終わりなき撤退戦を強いられている。

 

 

 

日本でもアメリカでも保守派の声が大きくなる

のは、そうしなければ自分たちの主張が人々の耳に届かなくなるからだ。

 


放っておけば、人は「自由」の価値に引き寄せられていく。過激なイスラム原理主義者ですら、「自由のために」 たたかっているのである。

 


感想

 


近代における「自由」の価値は圧倒的で、「伝統」がそれに取って代われるわけではない という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、現代でも自由の価値は圧倒的だと思います。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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功利主義と原理主義

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


功利主義原理主義

 


リバタリアニズムの思想をもうすこし具体的に見ていこう。

 


一般的に「功利主義原理主義の対立」と呼ばれる問題がある。

 


功利主義というのは、言うならば 「結果オーライ」の思想である。

 


功利主義者は、「なにがほんとうに正しいかなんてわからない」という立場(不可知論)をとる。

 


でも、人間が生きていくためには、なにが正しくてなにが間違っているかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが〝正しい”」と決めてしまうのだ(これを「帰結主義」とか、「プラグマティズム」とかいう)。

 


経済学というのは、この功利主義ときわめて相性がいい。

 


正しいかどうかを損得(効用)で判断できるからだ。

 


正しい経済政策とは、社会にもっとも大きな効用(=富)をもたらす政策なのである。

 


それに対して原理主義者は、なんらかの価値の源泉があらかじめ存在すると考える。

 


リバタリアンの場合、この価値(自然権)は「自由」であり、リベラリストなら「(自由を含む) 人権」となるだろう。

 


リバタリアン古典的自由主義経済学者と、リベラリストケインズ派経済学者と手を携えるのは、彼らが自分たちの奉ずる価値を補強するかぎりにおいてなのだ。

 


その主張がどれほど似ていたとしても、原理主義者と功利主義者のあいだには思いのほか深い溝がある。

 


原理主義功利主義のちがいは、「自然権」と「自然法」によって説明することもできる。

 


原理主義者は、すべての人間には天賦の権利(自己所有権、人権)が備わっていると考え、その自然権から自然法が成立する。

 


自然権は自由な個人間の社会契約によって成立すると考えるから、彼らは「契約論者」でもある。

 


一方功利主義者は、自由な社会(市場)のなかで、言葉や貨幣などの交換を通して自然に自生的に秩序が生まれ、それが自然法になると考える。

 


この場合自然権は、自然法によって事後的に定められた権利である。

 


リバタリアンであれ、リベラリストであれ、原理主義的、自由主義の特徴は、キリスト教原理主義イスラム原理主義と同様に)いっさいの妥協を許さないことである。

 


日本では反核反戦を唱えるリベラルな市民団体にしばしば狂信的なかたくなさが見られるうが、原理主義リバタリアンもこうした傾向から無縁ではない。

 


アメリカにおいて、 リバタリアンがカルト宗教の類と同一視されるのも、理由がないわけではない。

 


その一方で功利主義者には、生命の重さを計量するような冷酷さがつきまとう。

 


たとえば、ホームレスから臓器を摘出してより有用な人(たとえば難病の治療薬を開発中の生化学

者)に移植するのは、功利主義的にはどこも間違っていないのだ。

 

 

 

感想

 


功利主義というのは、言うならば 「結果オーライ」の思想である。

 


功利主義者は、「なにがほんとうに正しいかなんてわからない」という立場(不可知論)をとる。

 


でも、人間が生きていくためには、なにが正しくてなにが間違っているかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが〝正しい”」と決めてしまうのだ

 


という箇所がおもしろかった。

 


うまくいったものが〝正しい”には少し引っ掛かるものはありますが。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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市場原理主義を擁護する

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


「小さな政府」と「市場原理主義

 


1970年代のアメリカはベトナム戦争の泥沼に苦しみ、洪水のような日本製品流入貿易赤字が膨らみ、経済は停滞し株価は地を這うばかりで、社会はどんよりとした閉塞感に覆われていた。

 


だれもが「改革」の必要性を感じていたが、なにをどうすればいいかわからなかった。

 


バブル崩壊後の日本社会でも同様に、地価と株価の暴落にはじまる出口の見えない不況が延々とつづき、高齢化の不気味な足音とともに言いようのない不安が私たちを襲っている。

 


中国の台頭と国家の衰亡を嘆く憂国の人々が声を張り上げ、やはりだれもが「改革」を望んでいる。

 


でも、「改革」っていったいなんだ?

 


この疑問に対する著者の回答は明快である。

 


すべての不幸は国家によって引き起こされている。国家が存在しなければ(国家間) 戦争も貿易不均衡も起こらない。

 


年金制度が存在しないのだから高齢化社会が問題になることはないし、そもそも「国家」の衰亡を憂える必要すらない。

 


われわれは枯れ木を幽霊と信じて脅える子どもと同じだ。発想を変えさえすれば、コロンブスの卵のように「問題」そのものが消えてしまう。

 


これはすなわち、「国家観のコペルニクス的転回」である。

 


「お上」という言葉に象徴されるように、私たち日本人は(というより世界のほとんどの国では、国家(公)を民の上に立ち、人々を善導し、かいがいしく世話を焼き、ときには厳しく罰することもある母親のような存在と信じている。

 


だがリバタリアンにとって、最大限好意的に解釈しても、国家は市場で提供できない特殊なサービスを「必要悪」として担うだけだ。

 


国家が国民の福祉を増進するというのは幻想であり、アウシュビッツヒロシマ、あるいは旧ソ連強制収容所や中国の文化大革命を見てもわかるように、歴史的事実は、強制力をともなう巨大な権力が、一人ひとりの人生にとてつもない災厄をもたらすことを教えている。

 


そうであれば、国家が小さければ小さいほど私たちの自由と幸福は増大するはずだ。

 


人類の理想とは、国家の存在しない世界である主張だ。

 


これがリバタリアンの第一の主その一方で、私たちは「市場」を弱肉強食のジャングルのようなものだと思い込んでいる。

 


市場原理主義に支配された社会では「勝ち組」がすべての富を独占し、「負け組」はホームレスとなって路上で死を待つほかない。

 


これはマスメディアの大好きな構図だが、そこでは国家は暴走する市場に介入し、社会正義を実現するヒーローの役割を演じることになる。

 


だがリバタリアンによれば、これはとんでもない勘違いである。アダム・スミス以来の経済学が人類にもたらした最大の貢献とは、市場が弱肉強食の残酷な世界ではなく、自由な交換を通してだれもが豊かになれる協働の場所であることを示したことだ。

 


この自由な市場に国家が干渉すると、その機能は決定的に阻害され、経済的停滞と貧困が人々を襲うことになる。

 


このことは、1989年のベルリンの壁の崩壊とそれにつづく旧社会主義圏の解体で、歴史的に議論の余地なく証明されている。

 


福祉国家」の名のもとに国家が市場に介入することは、かつて旧ソ連・東欧諸国で大規模に行われた破壊行為(いまも北朝鮮では同様の仮借なき破壊がつづけられている)を、規模を小さくして繰り返しているようなものだ。

 


市場原理主義」こそが、人々に自由と幸福をもたらす唯一の希望なのである

 


これがリバタリアンの第二の主張になる。

 


リバタリアンの描く未来では、「小さな政府」は、仮にそれが必要であったとしても、国防や治安維持などの、限定された役割をたんたんとこなす下請け業者のようなものでしかない。

 


市場原理主義」は世界を一部の金持ちと大多数の貧乏人に分けるのではなく、むしろ国家こそが、そのような差別的で不幸な社会をつくるのだ。

 


国家は、徴税や徴兵によって個人の権利を不可避的に侵害する。公務員は国家に寄生し、吸血鬼のごとくわれわれの血を啜っている。

 


リバタリアンが唱える「改革」とは、国家に奪われた役割を市場と市民社会の手に取り戻すことだ。

 


感想

 


市場原理主義のマイナス面だけが取り上げられがちですが、自由を強調する見方もあるんだと感心しました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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政治とジェンダー

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  政治とジェンダー

 


2006年6月現在の女性の衆議院議員は480人中43人、比率にすると9.2%。

 


IPU(列国議会同盟) ランキングで178カ国中136位である。

 


参議院は14%、242人中34人。

 


長らく1〜3%台だった地方議会議員は2005年末にようやく8.6までに達したものの、いまだに半数弱の議会がいわゆる「女性ゼロ議会」である。

 


日本の女性政治家の少なさは半端ではない。

 


なぜなのか、それをどうすべきか。

 


こう述べたとき、必ず出てくる意見がある。

 


「政治家に大切なのは、政策。女性とか男性と

かは関係ない!」。

 


しかしながら、21世紀の今なお延々と積み重なっている「ジェンダーの歴史」は、まだまだ重い。

 


「圧倒的多数の男性のなかに少しだけ女性が混

じる」状態を不可解に感じない無意識の思いこみ。

 


女性が入りにくい選挙制度、マッチョな議会のあ

り方。

 


「子どもをどうするの…..・・・」 「夫がかわいそ

う」「あの女性議員は特殊な存在・・・・・・」 「女性議員はマドンナ”か“男のような女〟」。

 


そうした社会のジェンダーのありようが、女性

たちを政治から遠ざけ、困難をかいくぐって政界

に入った女性たちを悩ませ、挫折させる。

 


「政治の世界」はいまだに、数的にも質的にもジェンダーばりばり”の世界なのである。

 


その結果、何がおこっているのか。

 


政治にゆがみが生じている。

 


政策決定が一定範囲のジェンダーを背景にしてしかなされないために生じる、ゆがみである。

 


性と生殖の自己決定権の確立、セクシュアリテ

ィやドメスティック・バイオレンス、 戸籍に関す

る課題解決、女性/若者の非正規労働者化への対

応、母子家庭に多く見られる貧困の女性化の問題

解決などなどの主張は、政策課題としての優先順

位を低く見積もられ、解決への進展をなかなか見

いだせない。

 


それどころか、ジェンダー平等に向けて積み上げてきた到達すら崩そうという、いわゆるバックラッシュの動きが顕在化している昨今である。

 


「性別より政策」というけれど、 「男として、女

としてより人間として」などという人もいるけれ

ど、政治の世界の「ジェンダー差別をもとにした

権力構造」は歴然としてそこにあり、そうである

以上、「女性を政治の場へ」は古くて新しい課題

として、とりあげ続けられなくてはならない。

 


「なるほど、女性が必要なのですね。 でも、女性

ならば誰でもいいというわけではないでしょう」。

 


次に必ず出てくる反論がこれである。バックラ

ッシュの先頭に立つ女性議員が目立つ昨今なので、この反論は、かなりの現実味をもってきた。

 


基本的に、その通りである。男性も多様である

のと同様女性も多様なのだから、「女性なら誰で

もいい」わけがない。

 


しかし、差別をなくすためには区別をして、そ

の区別に特別の配慮を払う必要がある場合も現実

には存在する。

 


候補者選定に際しクオータ制を導入し、「数として」女性議員を増やしていこうという運動は、時限的な動きであるという留保をつけたうえで、有効である。

 


感想

 


ぼくもクオータ制に賛成ですが、そもそも女性の立候補者を増やすことは難しいのだろうかと思います。

 

 

 

下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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メディア利用におけるジェンダー差

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


メディア利用におけるジェンダー

 


メディアとの接触の環境にもジェンダー間で相違が見られるという。

 


たとえばイギリスの家庭におけるテレビ視聴の調査をしたドロシー・ホブソンは、調査対象となるオーディエンス、とくに高齢女性と一緒にテレビドラマを視聴して、男性は、余分な解釈を許さない閉じた物語を好むのに対して、女性はどちらかというと自らの解釈を加え、生活と結びつけ空想を豊かにするストーリーを好む傾向があるという。

 


もちろん、こうした傾向は先天的なものばかりでなく社会的環境の影響が強いと考えられる。

 


また、デヴィッド・モーリーによれば、男性は、何の妨害もなくテレビ視聴に専念する傾向が強いのに比べて、女性は一般に、会話や家事の合間などの「ながら視聴」がよく見られるという。

 


ここには明らかに、家庭内におけるジェンダー役割が反映しているだろう。

 


日本でも、メディア接触時間という点で、ジェンダー間に差がある。

 


テレビ、ラジオの接触時間は、一般に男性のほうが長いといわれる。総務省統計局による2001年の社会生活基本調査によれば、有業者の男性がテレビ、ラジオに接触する時間は、1日平均2時間14分なのに対し、有業者の女性は、1時平均時間57分であり、無業者の場合も、男性の四時間四分に比べて、女性は3時間1分である。

 


日本の男性の家事的時間が女性の9分の1とたいへん少ないことはよく知られているが、それにともない余暇時間全体が女性より男性が長くなっているということも考えられる。

 


しかし、映画や趣味の読書の時間については、むしろ女性のほうが長いというデータもある。

 


女性のほうが、受け身的な娯楽より、積極的に自分の関心に従って余暇を使っているということかもしれない。

 


インターネットの利用者率も興味深い。

 


国立女性教育会館が2003年にまとめた統計によると、男女とも20〜24歳がピークであるが、 29歳までは女性の利用率が男性より高く、それ以上の年齢では男性がより高い。

 


また、インターネット使用の内容については、女性はコミュニケーションに用いることが多く、男性は情報収集、閲覧が多いと見られている。

 


このように、メディアへの接触状況や接触メディアがジェンダーによって異なっていることにも注目する必要がある。

 


こうしたジェンダーによるメディア利用の違いに対応して、メディア側もさまざまな対応を開始している。

 


たとえば、商業メディア制作や編成の現場で最近頻繁に用いられる用語として「F」「E」がある。

 


「F」は、20〜34歳の女性を指し、「E」は、35〜49歳の女性を意味している(同様に男性については、M、が用いられる)。

 


こうしたジェンダー別および年齢別の視聴者調査の目的は、当然のことながら、広告を通じた消費者の開拓である。

 


現状では男女には依然大きな収入格差が見られるが、若い女性は、低収入にもかかわらず(結婚した女性の場合、家計を握っている割合は国際的に見て高い)、メディアのターゲットになっている。

 


多くの購買、消費活動に接触するジェンダーとして把握されているということである。

 


実際、テレビショッピングをはじめとする通信販売やインターネットオークションなどの利用においても女性が男性のそれを上回っている。

 


感想

 


メディア利用に男女差があるのがおもしろかった。

 


テレビショッピングにハマる女性芸能人が話題になることがありますが、そうなりやすい傾向があるようです。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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