とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

職業とジェンダー

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


マスメディアにあらわれるジェンダー

 


マスメディアとジェンダーをめぐる研究は、マスメディアにおけるジェンダー表現をめぐる女性たちからの抗議運動が一つの出発点になった。

 


性差別と女性のステレオタイプな描かれ方への異議申し立てである。

 


メディアで表現される男女像は、外での勤務は男性、家事労働は女性、上司が男性、部下が女性といった役割、地位、序列にかかわるものが圧倒的に多かったのである。

 


しかし、抗議運動の成果とともに、女性の職業が現実に多様化したことも影響し、かつては明確にジェンダーがあらわれた医師、弁護士、教授、社長、代議士などの職業はそれだけでは男性を意味しなくなった。

 


その結果、「女医」「女性議員」など女性だけに性別を冠する表現(女性冠詞)は大きく減少した。

 


また、従来女性の職業とされてきた看護婦や保母の名称も、看護師や保育士とジェンダーに中立な呼称に変えられた。

 


感想

 


職業に関しては、たしかに、少しずつ差別がなくなって来ていると思いました。

 


きっかけはやはり、当事者である女性が声を上げたからだと思います。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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演技の遊戯性

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 演技の遊戯性

 


ゴッフマンはそこまで書かなかったけれども、演技という行為には、もう一つ忘れてはならない側面がある。

 


それは、演技が「ふりをする」ということから引き起こす、「現実を相対化する」という力についてである。

 


たとえば、私たちが何かの演技をおこなおうとするとき、ときとしてそれ自体が自分にとって楽しいできごとになるときがある。

 


その日のできごとに備えて身だしなみを整えているとき、鏡に映った自分を見て、何かワクワクしてしまうときがそれだ。

 


つまり、ここにはおそらく、「いつもと違うバージョンの私」へという、自己変身の欲望がひそんでいる。

 


いわば仮面をつけることで、もう一人の自分へと変身する楽しさ。

 


ゴッフマンが描くような、計算と戦略をとおして印象を操作しようと企てる、そのようなシニカルな自己はここに存在しない。

 


このときの「私」は、パフォーマンスや企てからは身をひき、新しい身体をまとったもう一人の自己に遊ぶ態度のうちにある。

 


ロジェ・カイヨワはこのようなふるまいをミミクリー(変身)と名づけ、それが、日常生活である〈俗〉の世界や、宗教や祝祭に代表される〈聖〉の世界とも相対的に異なった、〈遊〉という独自の意味の領域にあると論じた。

 


この「遊ぶ」という態度には、独特の距離感覚を引き起こすことになる意識の二重性がある。

 


たとえば「ママゴト遊び」を考えてみよう。

 


「ママゴト遊び」における「お母さん」の役柄に対して、「私はお母さん」と思いこむことが、「ママゴト遊び」で遊ぶときにはまず必要なことである。

 


ところが、同時に「私は本当のお母さんではない」ということも理解していなければ、もちろん「ママゴト遊び」は遊びではなくなってしまう。

 


つまり、「私はお母さんである私はお母さんではない」という矛盾した二つの意識が同時に存在しなければ「ママゴト遊び」は成り立たない。

 


これが「遊ぶ」という態度にある、独特の意識の二重性のことである。

 


となれば、同じように社会生活において性が演じられているものであるとするならば、ジェンダ

化された演技を「遊んでいるのだ」という態度が表に浮かびあがってくることで、「私は「女/

男」である(ジェンダー化された役柄を演じざるをえない)」「私は「女/男」ではない(あえてジェンダー化された役柄を演じているのだ)」という意識の二重性を引き起こすことができるのではないか。

 


そして、こうした意識の二重性が、「日常生活のもつ現実性」を飛び越えることなく、規範的なものとして感じられている既存のジェンダー枠組みを、多様化させるきっかけになるのではないかと思うのである。

 

 

 

感想

 


「ママゴト遊び」の例がわかりやすいと思いました。

 


演じることと遊びが結びついているのです。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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ジェンダーを利用するとは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


ジェンダー化された演技の再帰性

 


ところでゴッフマンは、私たちの日常生活におけるパフォーマンスを、大きく二つの関心にもとづくものに分けた。

 


そのうちの一つが、広い意味での利他的な関心、つまり社会的場面の秩序の維持にかかわるものである。

 


たとえば挨拶や、ときに「見て見ぬふりをすること」は、社会的場面の円滑な流れを保障するための重要なパフォーマンスである。

 


ゴッフマンは、この他にも、神経質なドライバーを安心させるため安全点検のふりをするガソリンスタンドの店員の例や、正しいかどうかにかかわりなく自信をもって判断しているようにふるまう大リーグの審判の例をあげている。

 


同様に、たとえばパーティなどの場に、女性が化粧をし、華美なドレスや着物を着て出かけるといったふるまいは、パーティという社会的場面の秩序の維持に求められるこのようなパフォーマンスの好例でもあろう。もちろん、このようなふるまいは、既存の「女らしさ」「男らしさ」を固定化・再生産してしまう。

 


しかし、女性や男性として自由にあることと、「女」「男」として他者に受け取られ社会的場面を維持することとは本来別々のことがらである。

 


この種の期待に応えなければ、実際には「つきあいにくい人」のレッテルを貼られて社会的場面から引き離されることにもなりかねない。

 


こうして性を演じるパフォーマンスは、「女」として社会的場面に参加するための実践能力として習熟されていくことになってしまう。

 


一方で、日常生活においてあなたがファッションにこだわるのは、こうした利他的な関心のためだけでもないはずだ。

 


たとえば就職のための会社訪問のとき。

 


あなたは、自分を印象づけるために性に応じた服装に気を遣うだろう。「自分と他人の「みせかけ」に絶えず気を配るタイプ」が中心を占める現代の消費社会では、このような自己宣伝や自己表現に動機づけられた「性」を演じるパフォーマンスが、重要な印象操作の戦略になる。

 


ゴッフマンのいう二つ目の関心である。ここでは、自分の利益となるように、ファッションをとおしてより戦略的に「女らしさ」「男らしさ」を演じ、それをアピールするわけだ。

 


ジェンダーの存在を、逆に利用する試みである。

 


もっとも、そういうパフォーマンスのあり方自体も、既存のジェンダーをまさしく自発的に強化し

ていくメカニズムとして、ここでもまた作用してしまうのだけれども。

 


つまり、何がしかのパフォーマンスを通じて自己呈示するためには、社会に沈殿する「性」のパートを前提に私たちは演じざるをえない。

 


ここのところを強く否定して生きることができる人々は、たとえば大学教員や芸術家、作家など、何らかの意味で社会的な強者である場合が多い。

 


そして、同時にそれは、「言葉」や「作品」などの抽象的なところから、現実を方向づけるということになじんだ場所に住んでいる人が多い。

 


もちろん、このことの意義を否定するわけではないけれども、しかし、多くの一般的な人々は、それほど簡単に「日常生活のもつ現実性」を無視して生きることがむずかしいものである。

 


そうなると、日常生活における「女なんだから、男なんだからあたりまえじゃない」という感覚は、私たちが日々、パフォーマンスを演じる存在である以上、そしてそのことによってしか社会生活を送ることができない以上、そのパフォーマンスという生活実践によってまさしく内発的に再生産されてしまうということになる。

 


ジェンダーへの認識はあっても、なかなか実際の行動としてそれの是正に動けないといった「ズレ」は、このことが理由となって起こりやすい。

 


感想

 


自分の利益となるように、ファッションをとおしてより戦略的に「女らしさ」「男らしさ」を演じ、それをアピールするわけだ。

 


ジェンダーの存在を、逆に利用する試みである。

 


という部分が特におもしろいと思いました。

 


無意識のうちに、現実に行っている行動だと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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「女」を演じるとは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル ジェンダー化された自己呈示

 


花とアリス」のデートの場面。

 


ハナは、その場をデートにふさわしいものにする

ために、相手に対して普段とは異なった気の遣い方をしている。

 


ウイットに富んだふりをする会話や、ややオーバーアクション気味のパフォーマンス。

 


少なくとも話題がなくなって「冷たい空気」が流れることなどもってのほか。

 


その場の雰囲気を「恋人同士」として盛り上げるとともに、相手に与える自分の印象をよくしたい、というのが彼女の心の声。

 


このために、家でくつろぐときとはまた違ったモードで、ハナは「カレシ」の宮本に接している。そして、これは「元カノ」の役を回されたアリスにとっても状況は同じ。

 


相手の関心に合わせて、自分のある部分を誇張し、ある部分はとりあえず隠そうと努力している。

 


こうなると、彼女たちのデート場面とそこでの行為は、確かにゴッフマンのいうような「劇場」と「役者の演技」のようなもの。

 


自分が望んでいる状況をつくりだすことや、相手に与える印象を自分にとって好都合なものにするため、自分の行為に操作を加えることで、「私」を演出して情報をコントロールすることに彼女たちは腐心しているからだ。

 


ただここで、作品の物語とはまったく別な視点から彼女たちのパフォーマンスを眺め直してみよ

う。

 


そうすると、ハナやアリスが 「恋人」を演じるとき、笑顔を絶やさないとか、「あいづち」や「うなずき」をいつもより多めに使って、会話がスムーズに流れるように気づかっている、などといった、彼女たちの演技のディテール(細部)の特徴が見えてくるはずだ。

 


それは、もちろん彼女たちが「女」だから。

 


「男」なら、優柔不断な行動をとらないとか、しっかり彼女をリードしようなどと、知らず知らずのうちにデート場面では逆に気づかっているかもしれない。

 


他方で、さまざまな小道具を駆使し、「恋人」を状況づけたり演じようとしたりしているのはいつでもハナやアリス。

 


男の子である宮本はだいたい「見ている」だけ、というのも面白い。

 


映画を観ていてそれが奇異に思われないのは、女の子は見られる側で男の子は見る側、というようなことを、「あたりまえ」のことだと私たちがふつうに感じているからだろう。

 


つまり、ここに浮かびあがってくることは、「恋人」 を演じるということは、「恋人」として自己

呈示すると同時に、すでに「女としての恋人」「男としての恋人」というように、「性」の演技が含み込まれているということである。

 


服装や化粧、歩き方や座り方、脚の組み方、姿勢、視線のおき方からコーヒーの飲み方まで。

 


「恋人」というパートを意識すればするほど、それは同時に「女らしさ」「男らしさ」というものをその演技のなかで意識せざるをえなくなっていく。

 


もちろん、これは恋愛経験以外の場面でも、状況は同じ。

 


たとえば、よき先輩として、よく仕事のできるアルバイトとして、私たちは社会的な場面に応じてふるまうけれども、こうした自己呈示には、「女としてのよい先輩」 「男としてのまじめなアルバイト」など、必ずそこには「女/男」という性

のパートがすでに含まれている。

 


つまり、日常生活においては、どのような社会的場面においても、必ず「性」のパートが演じられているということだ。

 


ここから、私たちはある一つの社会生活の特徴をはっきりと定式化することができる。

 


それは、人と人とが直接出会い、対面的な相互作用をおこなっている社会生活では、そこでおこなわれる自己呈示=他者とのコミュニケーションが、「性の演技」をとおしてつねにジェンダー化されている、ということである。

 


これは、次のようにいいかえてもよい。

 


対面的な社会生活では、「私」と「あなた」が互いに呈示する情報を交換しあい、たとえば結婚式や、あるいは家族の食事という社会的場面=状況を定義し構成している。

 


しかし、そこにいるのは単なる「私」や「あなた」なのではない。

 


また単に「結婚式の参列者」や「牧師」、あるいは「親」や「子ども」なのでもない。

 


つねにそれは、「女の私」「男の私」、あるいは「女の参列者」「男の親」として、自分の行為に操作を加え、「女らしさ」「男らしさ」をつねにまとった「ジェンダー化されたパフォーマー」なのである。

 


そして、ゴッフマンが強調したように、日常生活とはつねに演じあうことでしか成り立たないとすれば、私たちは同時にまた、意識するしないにかかわらず、つねにジェンダーの渦のなかに巻き込まれ続けて生きざるをえない、ということになるのである。

 


感想

 


我々は知らずのうちに、「男」や「女」を演じているのかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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ゴッフマンの指摘

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 自己呈示と印象操作

 


アメリカの代表的な社会学者であるゴッフマンは、社会生活のなかでも、とりわけ人々が互いに人前にでたときに始まるさまざまな社会的場面=「社会的出会い」の構造に強く関心をもっていた。

 


たとえば、結婚式、家族の食事、司会者のいる会 行列、夫婦生活などの場面である。

 


そこでゴッフマンは、1959年に ThePresentation of Self in Everyday Life という本を世に送り出す。

 


日常生活における自己呈示、という意味だ(邦題は『行為と演技』)。

 


私たちの日常生活では、「私のふるまい」=行為が、その行為者自身の情報をも同時に相手に伝えてしまう、という面白い特徴がある。

 


たとえば、喫茶店のアルバイトとして客に接するとき、「ご注文をうかがってもよろしいですか」というしぐさと発話が、「私は喫茶店の店員である」という情報をも同時に相手に与えている。

 


「となりの席、空いてる?」と尋ねる人を、私たちが店員とは見ないのもそのせいである。

 


この意味で、人と人とが出会う場面では、行為はつねに自己呈示にならざるをえない。

 


見ず知らずの人とたまたま一緒になって電車を待つとき、その人の身なりやしぐさから、つまりその人がおこなっている自己呈示から、その人の情報を得ようと私たちは知らず知らずのうちにアンテナを張っている。

 


相手もそれがわかっているから、安心させたければ「私はあやしい者ではない」という情報を与えることができるようにふるまおうとするし、「あやしい者だと思わせて近づかせないようにしよう」などと思えば、逆にそのようなふるまいをすることさえできる。

 


行為が自己呈示として情報を伝えあうからこそ、このようなことが起こるのである。

 


ゴッフマンは、このような社会生活における対面的な相互作用状況を舞台にたとえ、印象の演出

者であり自己を呈示しようとする側を「パフォーマー」、それを受け取る側を「オーディエンス」、またそこで演じられる内容を「パート」もしくは「ルーティン」と呼んだ。

 


そして、このような「劇場のパフォーマンス」という観点から、社会的場面の構造を分析したのである。

 


日常生活であまり聞き慣れないこのような言葉づかいは、しかし、社会生活が「見る―見られる」という関係から成り立ち、このためその場の状況を定義しようとしたり、相手に何かを伝えたり、印象操作の演出、つまり演技という戦略に頼らざるをえないという私たちの社会生活の常識を、あらためてうまく言い当てることに成功している。

 


感想

 


有名な社会学者であるゴッフマンの上記のような指摘は、たしかにあり得ると思いました。

 


人は家庭でも、職場でも、学校でもそこで求められる役割を演じているのです。

 

 

 

下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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異性装とジェンダー

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 異性装とジェンダー

 


異性装、つまり、女装と男装についての研究は、演劇論などを除けば、著しく遅れている。

 


異性装の社会的役割、異性装者の実態に関する社会学的研究は、ごく最近まで日本ではほとんどおこなわれていなかった。

 


その背景には、異性装者に対する研究者を含む社会の根深い偏見が存在する。

 


しかし、異性装というテーマは、社会における

性別表現や性別認識を考える際の有効な分析視角

になるとともに、男女二元的な社会構造を相対化

する視点をも提供すると思われる。

 


たとえば、身体的な男性が女性の服飾を身にま

とう女装と、女性が男性の服装をする男装とは、

現代の日本においては対称的ではない。

 


男性が化粧をしてスカートを履けば女装になるが、女性が化粧をせずズボンを履いても男装にはならない。

 


そこには、男女の性別表現 (gender pattern) の

広さの差が反映し、社会的規制力は男性に強く作

用する。

 


社会的許容度は男性の女装的服装には低く、女性の男装的服装には高いが、その理由は、現代日本ジェンダー構造に根差している。

 


異性装をともなう現象にトランスジェンダー

(transgender 性別越境)がある。

 


トランスジェンダーの場合、性別表現(服飾)だけでなく、ジェンダー総体の転換が必要となる。

 


トランスジェンダーの存在は、ジェンダーが身体的性(sex)に必ず連関する生得的なものではなく、後天的な学習によって獲得される、意志的な選択が可能なものであることを如実に示している。

 


ところで、異性装にはおもしろい性格がある。

 


完璧な異性装は、異性装として社会的に機能しな

いということである。

 


男性が女装していると誰も気がつかなければ、その人は異性装者ではなく、社会的には女性である。

 


そんなことがあるのかと疑う人もいるだろうが、私の知人に、6年間、銀座で(女性として) クラブ・ホステスを勤めていた男性がいる。

 


このような場合は、異性装として性役割(gender role) や性自認 (gender identity)の社会的機能はないことになる。

 


逆にいえば、異性装が社会的に機能するのは、私のように視覚的に異性装者であることがわかるケースということになる。

 


また、社会学では、異性装は同性愛の下位概念

と認識されてきた。

 


はたしてそうなのだろうか?

 


女装者と男性との性愛は外見的にも当人たちの意

識的にも異性愛の擬態であり、同性愛というより

「擬似へテロセクシュアル」な性愛形態と見るこ

とができる。

 


このように異性装研究はセクシュアリティの分野でも新しい視角を提供する。

 


このように一口に異性装といってもテーマは多

岐にわたる。

 


一般的な認識として異性装は、演劇世界、ショービジネス、飲食接客業、あるいは密室的な女装クラブなどの限られた場に存在する特殊な現象と思われてきた。

 


しかし、近年、トランスジェンダー(性別越境者)の社会進出によって、異性装は社会のあちこちで顕在化しつつある。

 


その場合、トランスジェンダーを社会がどのよ

うに性別認識するかという問題が生じる。

 


個人レベルでは、女装者が「女」(女あつかい)として、男装者が「男」(男あつかい)として受け入れられるケースは意外に多い。

 


たとえば「私にとっては順子さんは「女」という受け入れ方であり、性別認識の幅はかなり広い。

 


しかし、行政・社会システムは、「戸籍上、男なら男」であって融通性に乏しく、トラブルが生じるケースがしばしばある。

 


日本人は、建国神話に女装の英雄ヤマトタケル

をもち、能や歌舞伎、宝塚歌劇のような異性装の

要素を濃厚にもつ芸能を愛好してきた。

 


そして、古代社会の女装の巫人、中世の女装の稚児、近世の女装のセックスワーカー陰間、近代の女装芸者、現代のニューハーフなど、異性装者の存在を許容し、特有の社会的役割を与えてきた。

 


こうした形態は、少なくとも欧米諸国には見ら

れない日本社会に特有の現象である。

 


異性装への寛容性、柔軟な性別認識には、日本社会のジェンダー観の特質がひそんでいるように思う。

 


異性装(トランスジェンダー)の社会学・社会

史的研究は、今、はじまったばかりなのである。

 


感想

 


「身体的な男性が女性の服飾を身にまとう女装と、女性が男性の服装をする男装とは、現代の日本においては対称的ではない」

 


「男性が化粧をしてスカートを履けば女装になるが、女性が化粧をせずズボンを履いても男装にはならない」

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、こういう側面はあると思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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DVやストーカーは個人の問題か

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


DV、ストーカー問題とジェンダーの関係

 


定義上、DVやストーカーは性別に関係なく、男女は加害者にも被害者にもなりうる。

 


しかし、国連世界女性会議ではDVを「女性に対する暴力 (Violence Against Women) 」 という表現で、 セクシュアル・ハラスメントや性暴力などとともに、女性が被害者となるものとして位置づけてもいる。

 


そう位置づけてこそ、よく見えてくる問題の構造がある。なぜDVが起きてしまうのか 、その主要な原因の一つが、この社会のジェンダーが人々にもたらす効果にある。

 


ここでいうジェンダーとは、性別によって人を異なる条件におく社会の作用(生活力や社会的地位、もっているネットワーク、周囲の期待)などという意味であると同時に、一つのできごとを認識する際の人々の認識枠組みの(対象の性別によって生じる) 歪み、という意味でもある。

 


まず、圧倒的に多くのDV加害者は男性であり、被害者は女性である。DVやストーカーの行動は確かに尋常ではない。

 


しかし、それは単なる精神疾患として「異常」「例外的な人」のレッテルを貼るだけですませられない。

 


暴力は女性側があげる離婚理由の第2位であるほど、DVは頻繁に起きている。日常生活ではふつうの人、ちゃんと仕事をし、職場や友人には優しくて礼儀正しい人も加害者には含まれている。

 


なぜ、男性はDVの加害者になるのか。その問いに対し、「男性は、出世の競争やリストラなど、会社でのストレスがたまってしまうから」という答えを思い浮かべる人もいるだろう。

 


けれども、そこで見落としてはならないのが、ではなぜその人たちは、原因をつくった会社の上司や仕事上のライバルに対しては暴力をふるわず、家に帰って妻にだけ、その八つ当たりをするのかということである。

 


「夫は妻になら虐待してもよい」という考えがあるとはいえないだろうか。

 


また、妻や恋人に権力をふるうことでプライドをつくりあげる男性、「家族のリーダーになることが一人前の男性である」というようなこだわりをもっている男性がいる。

 


ストーキングについては、「相手が多少いやがっても強引に誘うべきだ」という、活発な性的行動を男性に期待する風潮が、それを促し、許容してきたといえるかもしれない。

 


現代社会は男性をDV加害者に育ててしまう社会である。

 


女性の被害者が結婚から抜け出せない社会構造もある。

 


もし、DVの被害を受けている女性がいても、離婚がしやすく、相手との関係が絶ちやすい社会であれば、もう少し状況は改善しているかもしれない。

 


しかし、今日の日本社会では、多くの人が結婚して家計を一つにしていることを前提に、性別役割分業タイプの家族を基準として、会社の雇用や賃金、社会保障などの社会制度がつくりあげられている。

 


母子世帯は、仕事をするうえでも、社会的な評価の面でも非常に不利な立場におかれているのが実情である。

 


こうしたことも、相手との関係を見直し、関係を断ち切る力をもてなくさせてしまう原因の一つである。

 


男性のほうが被害者の場合を考えてみても、やはりジェンダーの作用は大きい。

 


男性の被害者は、いくらつらい思いをしていても、その被害は理解されにくい。男性が女性に支配されること自体が恥とされ、笑い話としか受け取られかねず、ましてや性的被害については、男性の被害は共感されにくいからだ。

 


DVやストーカー被害は、恋愛や性など個人的な問題として起こり、他人にとって、被害当事者

と一緒に怒ることや、解決のために自分も行動する必要性を感じることは、なかなかむずかしい。

 


しかし、その加害動機を生み出す要因、またその深刻さを隠蔽し、被害から脱出する力を奪う要因

は、社会がつくりあげたものであり、やはり誰も「自分は無関係」といいきることはできない。

 


感想

 


DVやストーカーは、個人的な問題だけでなく、社会的な問題と捉えることができると思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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