こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
知識の恩恵と弊害
同じ情報が良く働く場合もあれば悪く働く場合もある。
値段に関する情報は、認知的不協和の解消という過程を経て判断を歪める場合もあれば、注意の変化を生み出して対象のより正確な情報を得るきっかけにもなる。
そうすると、「産地の情報は良いが値段の情報は悪い」というようにして、内容によって良い情報と悪い情報を区別することはできないことになる。
どの情報も、良くも悪くも働きうるものなのだ。
そうすると、いっそのこと知覚以外の情報をすべて遮断した方が手っ取り早いと思う人もいるかもしれない。
だが、それが行き着く先は見込みのない純粋主義である。
むしろやるべきことは、情報がどのようにして悪い影響をもたらすかを理解し、自分の判断がそれに左右されていないかを気にかけることだ。
たとえば、高いお金を払って食事したときには「認知的不協和の解消のせいでおいしいと思わざるをえなくなっているのではないか」と自問してみるのが良いだろう。
ここまでの説明は食以外の場面にも一般化できる。音楽を再生する前に「ナントカ弦楽四重奏」というタイトルを眼にしていたら、演奏者が4人いるとわかり、4人の演奏を聴き分け、そのうえで4人が奏でる音の重なり合いを鑑賞することができる。
タイトルを知らずに同じ曲を聴き、何人で演奏しているのかわからない状態では、そのような鑑賞はできそうにない(音楽に詳しくない人はとくにそうだ)。
そのとき、「すごい重厚な演奏だ」という評価は
できるかもしれないが、「4人だけでこんなに重厚な音を出せているなんてすごい」という判断を下すことはできないだろう。
このように、知識は楽しみを増やしてくれるもてくれるものだが、他方で、知識に嫌悪感を抱く場面も少なくない。
たとえば、自分が「あのラーメン屋がおいしい」という話をしているときに、近くにいた知人が「でもその店はラーメン評価サイトでの点数が低い」とか「その系統のラーメンなら私がいつも行っている店の方がおいしい」とか言ってきたとしよう。
さらにその人が「私がいつも行くラーメン屋は有名店で修業した人が店主をしていて~」とか「その店は製麺所にもこだわっていて~」とか言ってきたらどうだろう。
かなりうんざりするはずだ。
純粋主義を支持したい気持ちになるのは、この手の不快な経験があるためかもしれないそうした人に対して「頭でっかちでうるさい、大事なのは自分がどう感じるかで、知識なんか関係ない」とつい思ってしまう。
正確には、こうした場合で嫌悪されるべきなのは知識ではなく知識を自慢してくる人なのだが、坊主が憎ければ袈裟まで憎く、知識も嫌悪の対象となってしまうのだ。
確かに、そこまで詳しい知識がなくても、食事を楽しむことはできる。
実際、「知識がないときの楽しみは少ない」といった言い方はしてきたが、「知識がないと食事を楽しめない」とは言っていなかった。
重要なのは、「楽しみが少ない」場合でも「いくらかの楽しみはある」ということである。
感想
たとえば、高いお金を払って食事したときには「認知的不協和の解消のせいでおいしいと思わざるをえなくなっているのではないか」と自問して
みるのが良いだろう、という箇所がおもしろいと思いました。
自問してみようと思います。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨