こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題
承認されない青年、されすぎた青年の末路
2008年6月8日、日曜の人出で混み合う秋葉原の歩行者天国に、派遣労働者で25歳の青年Kがトラックで突入しました。
その後、青年はトラックを飛び出すと、ダガーナイフで17人を次々に殺傷しました。
「秋葉原無差別殺傷事件」です。
この事件に関して大澤真幸は、この年、再刊された見田宗介の『まなざしの地獄』(河出書房新社)の「解説」のなかで、1968年から69年にかけて起こったN・Nによる連続殺人事件と対比しています。
そして40年を隔てた若者による二つの無差別殺人事件は、その表面的な共通性―2人の若者とも青森県出身で、首都圏を中心として不安定な就労を繰り返した末に多くの人を殺傷したことにもかかわらず、「驚くべき対照性」(大澤真幸「解説」見田宗介『まなざしの地獄』、106ページ)をもっている、といいます。
まず、N・Nは見田宗介が「まなざしの地獄」(『現代社会の社会意識』弘文堂に収録)で詳説したように、高度経済成長期ただなかの1965年に青森県の中学を終えてから集団就職で東京に出てきて、渋谷駅前のフルーツパーラーに就職します。
N・Nにとって東京は、嫌悪すべき貧しい村と家を棄て、新たなアイデンティティと居場所を見出す場所でした。
しかし、大都会・東京からみると、N・Nは単に低賃金で過酷な長時間労働に携わる「新鮮な労働力」にすぎません。
その後、N・Nは最初の職場をささいな理由で辞めたのち、孤独のうちに職を転々とするなかで都会の「まなざし」に囚われていきます。
そして、自分の出自、学歴、言葉づかい(訛り)などを偽装しようとします。
彼は洋品店で盗みを働いて服装に気を遣い、私立大学の学生証を偽造し、洋モク(外国製のタバコ)を吸う一方、田舎を想起させる麦飯を異様に嫌悪します。
しかし、こうした必死の「演技」にもかかわらず、彼が下層の若年労働者であることは変えられません。
絶望したN・Nは、ついには東京からも「密航」という形で脱出しようとしますが、その際、護身用に手に入れた拳銃で、警備員などを無差別に殺傷してしまいます。
これに対して、大澤は、このN・Nによる連続殺人事件とKによる秋葉原無差別殺傷事件の対照性を
次のように指摘します。すなわち、1960年代後半のN・Nにとっては、都会の「まなざしの過剰」
が「地獄」であったのに対して、2000年代初頭のKには逆に、自己に注意を払い承認してくれる都会の「まなざしの不在」が「地獄」の苦しみを与えていたというのです。
実際、見田も指摘するように、N・Nだけでなく、この当時、集団就職で東京に出てきた若年の下層労働者が切望したものは、自由時間と個室であった、とされます。
自分で自由になる時間と、他者(とくに都会人)のまなざしから自由になれる個室。
狭い部屋に何人もが詰め込まれ、共同生活を強いられた彼らには、何よりも他者の「まなざしの地獄」から逃れるための個室が必要だったのてす。
ところが、2000年代の孤独な無差別殺人者に必要だったものは、それがリアルな空間であれ、ヴァーチャルな世界であれ、自分を承認し、応答してくれる他者のまなざしだったのです。
Kは、インターネットの中のまなざしに、自分がしっかりと捉えられようと、必死で呼びかけていたのである。
しかし、ネットからの応答はなかった。 (中略)…だから、彼は、秋葉原に向かったのだろう。世界の中心で派手な犯罪を起こせば、「まなざし」もまた無視することはできないはずだからだ。
実際、犯罪において、彼は、都市のまなざしにたとえば周囲の人々の携帯電話のカメラにしっかりと捉えられた。
大澤真幸「解説」見田宗介「まなざしの地獄』河出書房新社、109ページ。
つまり、大澤によれば、「Kは、インターネットへの孤独な書き込みによって、そして世界の中心でのテロによって、神を呼び寄せようとした」のです。
けれども、インターネットに「ただいまと誰もい
ない部屋に言ってみる」と書き込んだ「Kの「ただいま」に「おかえり」と応ずる、神も恋人も現れなかった」のです(大澤真幸「世界の中心で神を呼ぶ」大澤真幸編『アキハバラ発」岩波書店、153ページ)。
感想
同じような境遇で、共通点が多い事件でも、ベクトルが逆に向いているという視点がおもしろかったです。
下記の本を参考にしました
『ライフイベントの社会学』
片瀬 一男著