こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
気晴らしと時間
さらに視点を変えよう。ここまでは、退屈する私たちがどんな状態にあるのか(待っている、焦っている)を考えた。
今度はそうではなくて、退屈する私たちが退屈に
どう関わろうとするのかを考えてみよう。
退屈しているとき、私たちは退屈を押さえ込もうとする。
退屈を押さえ込むにあたってもとめられるのは気晴らしである。
私たちは気晴らしによって退屈を押さえ込も
うとする。
先ほどの事例に戻って考えよう。木々を数える。道を行ったり来たりする。
座り込んで地面に絵を描く。
こうしたことはすべて気晴らしである。どれも退屈を押さえ込むために行われている。
こうして気晴らしに注目すると、また再び、時計を見るという仕草が目につく。
というのも、気晴らしが行われる度毎に、すぐに時計に目をやっているからだ。
道を行ったり来たりすると、すぐに時計を見る。 地面に絵を描くと、またすぐに時針を見る。
なぜなのか?
もしかしたら時計を見ることも気晴らしなのだろうか?
いやそうではないだろう。
なぜなら、時計を見るという仕草は退屈を押さえ込むために行われているわけではないからだ。
私たちは時間を確認するために時計を見ている。
退屈を押さえ込むためではない。
だが、単に時間を見るためなら何度も時計を見る必要などない。
すると、何度も時計を見るという行為には、どこかしら変なところがあることになる。
どうやらここに問題を切り開くカギがありそうだ。
何度も繰り返し時計を見てしまうとき、私たちは単に現在の時刻を確認したいのではない。
いま何時何分であるのかを知りたいのではない。そうではなくて、列車の発車までまだどれだけ時間があるのかを知りたいと思っている。
では、なぜそれを知りたいと願うのか?
目の前に現れている退屈を相手に、あとどれだけこの成果のあがらぬ気晴らしを続けねばならないのか、それを確認したいからである。
いま私たちは退屈と闘っているけれども、その闘いがうまくいっていない。
だからそれがあとどれだけ続くのかを確かめようとしているのである。
気晴らしを通じて行われる退屈相手の闘いとはいかなるものだろうか?
言うまでもなく、それは時間をやり過ごすこと、時間がより早く過ぎ去るように仕向けることに他ならない。
ならば、なぜ時間がより早く過ぎ去るようにしたいのか?
簡単だ。時間がのろいからである。
感想
たしかに時間がのろいと感じることはあると思いました。
下記の本を参考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎