とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

疎外と本来性

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


疎外と本来性

 


疎外をただ疎外と名指すだけでは重大な過ちを犯すことになる可能性がある。

 


「疎外」はかつて「労働者の疎外」として盛んに論じられたけれども、あるときから、むしろ積極的に遠ざけられる概念になってしまった。

 


なぜそういうことになったのかというと、この概念がどうも危険だと思われるようになってきたのである。

 


どういうことだろうか?

 


疎外された状態は人に「何か違う」「人間はこのような状態にあるべきではない」という気持ちを起こさせる。ここまではよい。

 


ところがここから人は、「なぜかと言えば、人間はそもそもはこうでなかったからだ」とか「人間は本来はこれこれであったはずだ」などと考え始める。

 


つまり、「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。

 


これらを、本来性とか〈本来的なもの〉と呼ぶことにしよう。

 


「疎外」という言葉は人に、本来性や 〈本来的なもの〉を思い起こさせる可能性がある。

 


〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。

 


なぜならそれは強制的だからである。

 


何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。

 


本来性の概念は人から自由を奪う。

 


それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。

 


何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。

 


たとえば、「健康に働けることが人間の本来の姿だ」という本来性のイメージが受け入れられたなら、さまざまな理由から「健康」を享受できない人間は非人間として扱われることになる。

 


これほどおぞましいことはない。

 


本来性あるいは〈本来的なもの〉は強制と排除に至る他ない。

 


そして、疎外が盛んに論じられていた頃、あるときから人々は、「疎外」の概念が「本来性」の概念と切り離しがたいのではないかと考えるようになった。

 


それ故に、「疎外」は危険視された。そして用いられなくなってしまった。

 


感想

 


何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる、という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、こういう見方もできると思います。

 


下記の本を参考にしました


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

flier(フライヤー)