こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
疎外論者たちの欲望
ではどうするのか? 問題はここからだ。あろうことかパッペンハイムはこの後、マルクスが批判したはずのヘーゲルの労働概念に戻ってしまうのである。
多少詳しく見てみよう。
パッペンハイムによれば、マルクスは疎外された労働の危険を力説したけれども、単に疎外の否定的な面ばかりを見ていたわけではない。
マルクスはヘーゲルと同様に、疎外の苦しみとそれを克服する努力によって人間は自己自身へと戻ると信じていた。
このことが労働過程に真の意味を与える。
パッペンハイムはこう述べて、マルクスの議論をヘーゲルの議論で理解してしまう。
マルクスの議論がヘーゲルに対する批判から出てきたことを知っている読者なら、首をかしげてしまうに違いない。
ここに見るべきは一つの典型的な症候である。
ここには疎外を論じる人々の欲望が明確に現れている。
その欲望とは、本来性へと回帰したいという欲望に他ならない。
労働が疎外されているから、本来の、「真の」労働へと回帰せねばならない......。
当時の疎外論者たちはそう願い、そしてその願いのままに論文を書いていたのである。
―マルクスの文言を無視して。
繰り返すまでもないが、「真の」労働などと夢想されているものは、ヘーゲルが頭のなかでこねくり回して作った労働概念にすぎないのだと、そう指摘するところから始めたのが他ならぬマルクスではなかったか?
こういった問題になると、もはや理論的にああだこうだ言っても無駄である。
要するに、「疎外」と口にする人のほとんどは、「本来的なものに戻っていきたい」「本来性を取り戻したい」という欲望に突き動かされているのである。
それが冷静な議論を妨げているのだ。
感想
欲望とは、本来性へと回帰したいという欲望に他ならない、という箇所がおもしろいと思いました。
本能に従うといい換えてもいいと思います。
下記の本を参考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎