こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
人間の主体性について
すこし視野を広げてみよう。
20世紀の資本主義の特徴の一つは、文化産業と呼ばれる領域の巨大化にある。
20世紀の資本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。
もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。
芸術家だって霞を食って生きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしていた。
芸術が経済から特別に独立していたということはない。
けれども20世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの作品を操作的に作り出して大量に消費させ利益を得るという手法が確立された。
そうした手法にもとづいて利益をあげる産業を文化産業と呼ぶ。
文化産業については厖大な研究があるが、そのなかでも最も有名なものの一つが、マックス・ホルクハイマー とテオドール・アドルノが1947年に書いた『啓蒙の弁証法』である。
アドルノとホルクハイマーはこんなことを述べている。
文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。
どういうことだろうか?
彼らは哲学者なので、哲学的な概念を用いてこのことを説明している。
すこし噛み砕いて説明してみよう。
彼らが利用するのは、18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントの哲学だ。
カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。
どうやって人間は世界を認識しているのか?
人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。
人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめてそれを理解しているというわけだ。
たとえば、たき火に近づけば熱いと感じる。このとき人は、「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得るだろう。
この「から」にあたるのが、人間があらかじめもっている型(概念)だ。
この場合には、原因と結果を結びつける因果関
係という概念である。
因果関係という型があらかじめ頭のなかにあるからこそ、人は「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得られる。
もしもこの概念がなければ、たき火が燃えて[いるという知覚と、熱いという感覚とを結びつけることができない。
単に、「ああ、たき火が燃えているなぁ」という知覚と、「ああ、なんか顔が熱いなぁ」という感覚があるだけだ。
人間は世界を受け取るだけではない。それらを自分なりの型にあてはめて、主体的にまとめ上げる。
18世紀の哲学者カントはそのように考えた。
そして、人間にはそのような主体性が当然期待できるのだと、カントはそう考えていた。
アドルノとホルクハイマーが言っているのは、カントが当然と思っていたこのことが、いまや当然ではなくなったということだ。
人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。
産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られかの決められたものを主体
に差し出している。
もちろん熱いモノを熱いと感じさせないことはできない。白いモノを黒に見せることもできない。
当然だ。だが、それが熱いとか白いとかではなくて、「楽しい」だったらどうだろう?
「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。
たとえばテレビで、ある娯楽を「楽しむ」 タレントの映像を流す。
その翌日、視聴者に金銭と時間を使い、その娯楽を「楽しんで」もらう。
私たちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。
感想
人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった、という箇所がおもしろいと思いました。
たしかに、主体的ではないかもしれないと思いました。
下記の本を參考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎