こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
言うことを聞いてくれない
空虚のなかに放置されないために気晴らしを行う。これはよく分かった。
だがよく考えてみよう。 空虚などあり得るのだろうか?
いまの状況を考えてもらいたい。何もない、空虚だと言うけれども、電車を待つ私たちの周りには何もないのだろうか?
もちろん、そんなことはない。駅舎がある。
時刻表も街道も並木もある。そもそもそこは鉄道が通るような地域なのである。
何もないわけではない。
たしかに何かがある。なのに、なぜ何もないと言われてしまうのか?
それはこういうことである。そこには物がある。
しかし、それらの物がこちらに向かって何事も
仕掛けてこない。私たちを完全にほったらかしにしている
〈空虚放置〉とは単に物がないということではない。
物が私たちに何も提供してくれないことを意味しているのだ。
しかし、駅舎は本当に私たちに何も提供しないのだろうか?
実際、駅舎は切符を売り与え、雨風をしのぐための場所を提供している。何も提供しないとはおかしいではないか。
いやそうではないのだ。駅舎はたしかにいろいろなものを提供している。
しかし、私たちが期待しているものを提供してくれていないのだ。つまり列車である。
何も提供してくれない、完全にほったらかしにしている、空虚の内に放置しているとは、すなわち、その駅舎が私たちの言うことを聞いてくれないということなのだ。
こうして長々と考え続けてきた退屈の第一形式の結論が見えてくる。
ぐずつく時間によって引きとめられることで私たちが困ってしまうのはなぜか?
私たちが期待しているものを提供してもらえないからである。
目の前の駅舎が退屈なのではない。
の前の駅舎はそれだけでは私たちを空虚の内に放置したりしない。
目の前の駅舎が私たちの言うことを聞いてくれないから、私たちは退屈するのだ。
感想
私たちが期待しているものを提供してもらえないから退屈するという結論は、説得力があると思いました。
下記の本を参考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎