こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
スヴェンセン 「退屈の小さな哲学」
今度は別の哲学者の退屈論を取り上げよう。本章の冒頭で言及したスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』である。
この本は世界15カ国で刊行された話題の本である。
スヴェンセンはこの本を専門的にならないように、いわばカジュアルなものとして書いたと言っている。
たしかに彼の口調は軽い。
だが、その内容はほとんど退屈論の百科事典のようなものだ。
もし退屈についての参考文献表が欲しいと思えば、この本を読めばよい。
参照している文献の量では、本書はスヴェンセンの本にはかなわない。
スヴェンセンの立場は明確である。
退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義の
せいだ、これが彼の答えである。
ロマン主義とは18世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。
スヴェンセンによれば、それはいまもなお私たちの心を規定している。 ロマン主義者は一般に「人生の充実」をもとめる。
しかし、それが何を指しているのかはだれにも分からない。
だから退屈してしまう。これが彼の答えだ。
人生の充実をもとめるとは、人生の意味を探すことである。
スヴェンセンによれば、前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。
個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、 それを与えてくれたということだ。
たとえば近代以前、共同体のなかで一人前と認められることは大きな価値を有していた。
共同体はある若者を一人前と認めるための儀式や試練 (成人の儀式等々)を用意する。
個人はそれを乗り越えることに生きる価値を見出す。
あるいは、神が死を迎える以前、信仰がまだ強い価値と意味を保持していた時代を思い浮かべてもいいだろう。
そこでは人間の生も死も宗教によって意味づけられていた。
ところが、近代以降、このような意味体系が崩壊する。
わ生の意味は共同体によって一方的に与えられるような一元的なものではなく、いろいろな方法で探すことができるものになった。
言い換えれば、生の意味が共同体的なものから、個人的なものになった。
そこからロマン主義が生まれる。 ロマン主義者は、生の意味は個人が自らの手で獲得すべきだと考える。
とはいえ、そんなものが簡単に獲得できるはずはない。
それ故、ロマン主義者たる私たち現代人は退屈に苦しむというわけである。
感想
生の意味が共同体的なものから、個人的なものになった、という指摘がおもしろいと思いました。
下記の本を参考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎