こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
苦しみをもとめる人間
パスカルの考えるおろかな気晴らしにおいて重要なのは、熱中できることという要素だった。
熱中できなければ、自分をだますことができないから気晴らしにならない。
では、さらにこう問うてみよう。熱中できるためには、気晴らしはどのようなものでなければならないか?
お金をかけずにルーレットをやっても、ウサギを楽々と捕らえることのできる場所で狩りをしても、気晴らしの目的は達せられない。
つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない。
この負の要素とは広い意味での苦しみである。
苦しみという言葉が強すぎれば、負荷と言ってもいい。
気晴らしには苦しみや負荷が必要である。
ならば次のように言うことができるはずだ。
退屈する人間は苦しみや負荷をもとめ、私たちは普段、精神的・身体的な負荷を避けるために、さまざまな工夫を凝らして生きている。
たとえば、長いこと歩いて疲れるのを避けるために自動車に乗る。
だが、退屈すると、あるいは退屈を避けるためであれば、人はわざわざ負荷や苦しみをもとめる。
苦労して山を歩き、汗びっしょりになって、欲しくもないウサギを追いもとめる。
つまり、パスカルの言うみじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことに他ならない。
感想
たしかに、気晴らしをもとめてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことかもしれないと思いました。
下記の本を參考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎