こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
熱中できること、自分をだますこと
気晴らしは要するに何でもよいのだという気すらしてくる。
退屈を紛らしてくれるなら何でもいい。あとは、選択可能な気晴らしのなかから、個人個人にあったものが選ばれるだけである、と。
だが、たしかに何でもよいのかもしれないとはいえ、条件は簡単だ。
気晴らしは熱中できるものでなければならない。 気晴らしは騒ぎを引き起こすものでなければならないのである。
なぜ熱中できるものでなければならないのだろうか?
熱中できなければ、ある事実に思い至ってしまうからである。
気晴らしの対象が手に入れば自分は本当に幸福になれると思い込んでいるという事実、もっと言えば、自分をだましているという事実のことだ。
パスカルははっきり言っている。
気晴らしには熱中することが必要だ。
熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要があるのである」。
〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉の区別を使って次のように言い換えてもいい。人は、〈自分が欲望の対象〉を〈欲望の原因〉と取り違えているという事実に思い至りたくない。
そのために熱中できる騒ぎをもとめる。
自分をだますといっても、そこには深刻な趣きなどすこしもないことにも注意しておこう。
人間は部屋にじっとしていられず、必ず気晴らしをもとめる。
つまり、退屈というのは人間がけっして振り払うことのできない病”である。
だが、にもかかわらず、この避けがたい病は、ウサギ狩りとか賭け事のような熱中できるものがありさえすれば、簡単に避けられるのだ。
ここに人間のみじめさの本質がある。人間はいと
も簡単に自分をだますことができるのである。
感想
ここに人間のみじめさの本質があると筆者はいいますが、ぼくは人間の器用さだと思います。
下記の本を參考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎