こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
ウサギ狩りにいく人はウサギが欲しいのではない
ここからがパスカルの分析のおもしろいところだ。
人間は退屈に耐えられないから気晴らしをもとめる。
賭け事をしたり、戦争をしたり、名誉ある職をもとめたりする。それだけならまだ分かる。
しかし人間のみじめはそこでは終わらない。
おろかなる人間は、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。
どういうことだろうか?
パスカルがあげる狩りの例を通して見てみよう。
狩りというのはなかなか大変なものである。重い装備をもって、一日中、山を歩き回らねばならない。
お目当ての獲物にすぐに出会えるとも限らない。
うまいこと獲物が見つかれば、躍起になって追いかける。そのあげく、捕れた捕れなかったで一喜一憂する。
そんな狩りに興じる人たちについてパスカルはこんな意地悪なことを考える。
ウサギ狩りに行く人がいたらこうしてみなさい。「ウサギ狩りに行くのかい? それなら、これやるよ」。そう言って、ウサギを手渡すのだ。
さて、どうなるだろうか?
その人はイヤな顔をするに違いない。
なぜウサギ狩りに行こうとする人は、お目当てのウサギを手に入れたというのに、イヤな顔をするのだろうか?
答えは簡単だ。ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからだ。
狩りとは何か?
パスカルはこう言う。狩りとは買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを追いかけて一日中駆けずり回ることである。
人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行くのである。
狩りをする人が欲しているのは、「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」に他ならない。
だというのに、人間ときたら、獲物を手に入れ
ることに本当に幸福があると思い込んでいる。
ウサギを手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。
パスカルは賭け事についても同じことを述べている。
毎日わずかの賭け事をして、退屈せずに日々を過ごしている人がいるとしよう。
「賭け事をやらないという条件つきで、毎朝、彼が一日にもうけられる分だけのカネを彼にやってみたまえ。そうすれば、君は彼を不幸にすることになる」
当然だ。毎日賭け事をしている人はもうけを欲しているのではないのだから。
感想
おろかなる人間は、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、という箇所がおもしろいと思いました。
たしかに我々は、退屈に耐えられないのかもしれないと思いました。
下記の本を參考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎