こんにちは。冨樫純です。
哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
自分は何をしたいのか
最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス は、20世紀半ば、 1958年に著した『ゆたかな社会』でこんなことを述べている。
現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。
広告やセールスマンの言葉によって組み立てられてはじめて自分の欲望がはっきりするのだ。
自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、19世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。
経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために、自分の考えは経済学者たちから強い抵抗にあったとガルブレイスは述べている。
つまり、消費者が何かを必要としているという事実(需要)が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)、これこそが経済の基礎であると考えられていたというわけだ。
ガルブレイスによれば、そんなものは経済学者の思い込みにすぎない。
だからこう指摘したのである。高度消費社会―彼の言う「ゆたかな社会」においては、供給が需要に先行している。
いや、それどころか、供給側が需要を操作している。
つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている、と。
いまとなってはガルブレイスの主張はだれの目にも明らかである。消費者のなかで欲望が自由に決定されるなどとはだれも信じてはいない。
欲望は生産に依存する。
生産は生産によって満たされるべき欲望を作り出すならば、「好きなこと」が、消費者のなかで自由に決定された欲望にもとづいているなどとは到底言えない。
私たちの「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって作り出されているかもしれない。
もしそうでなかったら、どうして日曜日にやることを土曜日にテレビで教えてもらったりするだろうか?
どうして趣味をカタログから選び出したりするだろうか?
こう言ってもいいだろう。「ゆたかな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、たしかにその余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われている。
しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではない。
問題はこうなる。そもそも私たちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなどもっていたのか?
感想
私たちの「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって作り出されているかもしれない、という箇所が印象に残りました。
知らず知らずのうちに操られているのかもしれません。
下記の本を參考にしました
『暇と退屈の倫理学』
國分 功一郎