こんにちは。冨樫純です。
政治哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
この世界で希望を持ち続けるために
就学前の子どもたちは「金平糖みたいに色とりどり」です。それが小学校に入った途端にみんなとおなじ」であることが求められます。
教科書通りの解答が求められるなか、他者と違う言動をすると排除されてしまうという経験を重ねて、「黙っていることが得策だ」と考えるようになります。
このことは、サンデルが取り上げる有名な「暴走する路面電車の問題」への回答に顕著に見られます。
サンデルは『これからの「正義」の話をしよう』で次のように問うています。
あなたは路面電車の運転士で、時速60マイル(約96キロメートル)で疾走している。
前方を見ると、5人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。
頭が真っ白になる。5人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする) ......
ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。
路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく
······どうすべきだろうか?
もう一つ別の物語を考えてみよう。今度は、あなたは運転士ではなく傍観者で、線路を見降ろす橋の上に立っている(今回は待避線はない)。線路上を路面電車が走っている。
前方には作業員が5人いる。ここでも、ブレーキはきかない。路面電車はまさに5人をはねる寸前だ。
大惨事を防ぐ手立ては見つからない――そのとき、隣にとても太った男がいるのに気がつく。
あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行く手を阻むことができる。
その男は死ぬだろう。だが、5人の作業員は助かる(あなたは自分で跳び降りることも考えるが、小柄すぎて電車を止められないことがわかっている)
その太った男を線路上に突き落とすのは正しい行為だろうか。
これらの問いに対して、「自分が運転手だったら何もしない」「自分が橋の上から見下ろしている人だったら何もしない」という消極的な「選択」をする人が多いようです。
しかしこの消極性は、〈正義とは何であるか〉という問いへの関心が薄いことから生じているのではありません。
そうではなく、考えること、自分の考えを述べること、他者の考えを聞くこと、そして議論を重ねることの機会が少なかったことから生じて、人間の脳には、生まれつき正義のアルゴリズムが実装されているわけではありません。
正義は社会のなかで学んでゆくものであり、他者とともに創造してゆくものなのです。
感想
最後の箇所が印象に残りました。
たしかに、正義は社会のなかで学んでゆくものであり、他者とともに創造してゆくものだと思います。
下記の本を參考にしました
『正義とは何か』
現代政治哲学の6つの視点
神島 裕子著