こんにちは。冨樫純です。
政治哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
多層社会を生きる哲人市民
問題は、誰がどのように民主主義をケアしていくかです。
諸個人の自由の暴走を防ぐことに加えて、民主的正統性も確かなものとしていかなければなりません。
国内社会から国際社会へ、そしてグローバル社会へと、諸個人の生きる社会が多層化するなかで、この課題への取り組みは困難を極めているように思います。
「哲学とデモクラシー」のなかでウォルツァーは、政治共同体に生きる哲学者が、「共同体に関与する哲学者、つまり、ソフィスト、批評家、ジャーナリスト、知識人」であり、そうした社会的役割のリスクを負わなければならない存在だと述べています。
そしてそのような哲学者が受け入れるべきリスクを、ウォルツァーは二つ示していました。
一つは「洞窟」のなかの真理であろうとも、民主的決定にはかなわないというリスク。
つまり、社会に生きる哲学者は民主的決定を受け入れなければならない、ということです。
もう一つは個別主義を取らざるをえないというリスク。
つまり社会に生きる哲学者は普遍主義を諦めなければならない、ということです。
しかし、これらのリスクは厭うべきものではないということを、現代正義論の歩みは示しているのではないでしょうか。
人間には新たな観点で哲学をする力量があることをロールズは次のように示唆しています。
ひとたび、理解力が成熟し、社会における自分の立場を認識するにいたり、他者の観点を取ることができるようになるならば、社会的協働の公正な条項 (fair terms) を確立することで達成される相互の便益を人びとは正しく評価する。
私たちは他者に対する生来の共感を有し、仲間意識や自制に由来する喜びへの生得的な感受性を持っている。
そしてこれらのことは、ひとたび私たちが、適切に一般的な視点から仲間との関係をしっかり把握するならば、道徳的情操の情緒的な基礎を提供してくれる。(ロールズ 『正義論』)
多元的な社会において、民主主義をケアしていかなければならないのは、私たちデモス(民衆)です。
古代ギリシア世界と比べて、哲学と民主主義の距離はぐっと縮まっています。
なによりデモス(有権者)の幅が拡がっており、また教育の普及によって哲学の担い手が格段に増えました。
私たちは実際に、哲学的素養をもって、民主的決定に参画しているのです。
この哲学と民主主義の相互作用が顕著に見られるのが、現代正義論というフィールドです。
私たちが社会に生きる哲学者として、正義に関する民主的合意の道を探っていかなければ、権力者による「正義」の私的使用の悪化はとどまることを知らないでしょう。
社会に生きる哲学者をプラトンの「哲人王」にちなんで「哲人市民」と呼ぶことができるかもしれません。
哲人市民は民主的決定を重んじると同時に、その正当性に無関心ではいられません。
政府との道徳的な結びつきを求め続けるなかで、民主的正統性の向上にも寄与する。
感想
哲人市民が増えれば政治が変わるかもしれないと思いました。
下記の本を參考にしました
『正義とは何か』
現代政治哲学の6つの視点
神島 裕子著