とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

国を愛するということ

こんにちは。冨樫純です。

 


政治哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


国を愛するということ

 


そもそも愛国心とはなんでしょうか。

 


古代ローマキケロは、生まれによる祖国と市民権による祖国を対比して、次のように述べていました。

 


自治都市の住民はすべて二つの祖国、つまり一つは自然による祖国、もう一つは市民権による祖国をもっている……そのようにわたしたちは、めいめいが生まれた場所のみでなく、市民として受け入れられた場所も祖国と考えるのだ。

 


しかし、何にもまして愛情を注がなければならないのは、それによって市民全体が国家という名をもつことになる祖国、そのためにわたしたちが生命を捨て、それに自己のいっさいを捧げ、そこにわたしたちの所有物のすべてを供え、いわば奉納しなければならない祖国である。

 


だが、わたしたちを生んだ祖国を愛しく思う気持ちが、わたしたちを市民として受け入れた祖国第六卷を愛しく思う気持ちに大きく劣るというのではない。(キケロ「法律について」)

 


キケロにとって市民権による祖国は「レスプブリカ」 (res publica)、つまり公共的なるものであり、奉仕の対象でした。

 


そこでの愛国心は祖国を共にする同胞市民への愛だと言えますが、それは生まれによる祖国への愛と両立するものでした。

 


そして歴史家のエルンスト・カントロヴィッチが伝えるところによると、中世ヨーロッパでは、世俗国家がキリスト教会の神秘性を模倣するようになり、「頭がキリストである教会の神秘体」ならぬ「頭が君主である国家の神秘体」と化しました。

 


「祖国のための」死が「神の義のための」死と同じ価値を持つと見なされるようになり、国を愛するということが敬虔な犠牲を伴うものとなったのです。カントロヴィッチ自身は、ドイツ領ポーゼン(現在のポーランドポズナン)で生まれ、第一次世界大戦にはドイツ兵として従軍し、ドイツの大学で学位を取りまた教えていたにもかかわらず、ユダヤ人であるという理由だけで祖国を追われ、アメリカに渡った人でした。

 


現代になり、コミュニタリアンのウォルツァーは、リベラル-コミュニタリアン論争以前の著作『義務に関する十一の試論』で、真の共同生活が存在すると考えている人には、国家のために死ぬ道徳的義務があると論じました。

 


そのような共同生活はないと考えている人にはそのような義務はないが、その人は「道徳的異邦人」である。

 


国家内部での「生きる権利」は保障されているが、その生は「善い生」ではない、と。しかしマッキンタイアは『美徳なき時代』のなかで、「愛国心 (patriotism) という徳は、私たちに十全な意味での祖国 (patria) がないために、かつてのものではありえない」と述べています。

 


なぜ現代社会には「十全な意味での祖国」がないのでしょうか。

 


マッキンタイアによれば、それは「政府が市民たちの道徳的共同体を表現することも代表することもしないで、その代わりに、その政府が一揃いの制度的取り決めになっていて、それが正真正銘の道徳上のコンセンサスを欠いている」ことによります。

 


官僚主義化し、政治的責務の本性が不明瞭になった社会では、政府は、市民たちの道徳的共同体との結びつきを失っている。

 


そのなかで市民は「私の国への、私の共同体への忠誠」という徳をもち続けることができるとしても、その政府に対する責任や政府のなかでの責任を果たすという徳を実行することができなくなるのです。

 


市民たちの善い生を考慮することをやめた政府と、政府への責任を果たさなくなった市民によって、かつての意味での愛国心は「追放された」―現代社会における善い生は、もはやマッキンタイアが説くような伝統的な物語的秩序に即するものではありませんが、ここでの彼の見解には一理あります。

 


真の愛国心は「私をたまたま支配している政府への服従」ではないこともマッキンタイアは示唆しています。

 


そのような偽の愛国心の流布への懸念は、「結局のところ愛国心が奉仕しようとしている価値ある目標のいくつか―たとえば、正義と平等という価値ある道徳的理想に国民が一体となって献身するという目標を破壊してしまうことになると信じる」という『国を愛するということ』におけるヌスバウムの懸念につながるものであるように思えます。

 


私たちに必要なのは、現代社会における正義を前進させる愛国心です。

 


アメリカ独立戦争当時、独立を支持してアメリカの市民権を得たイギリス人リチャード・プライスは、祖国愛をもつこととコスモポリタンであることが両立可能だとして、次のように述べました。

 


私たちは、私たちのさまざまな環境と能力とが許すあらゆる手段によって、祖国の利益を求めるべきであるが、しかし同時に私たちは、私たちが世界の市民であることを考えるべきであり、そうして他の諸国の諸権利に対する正当な顧慮を維持するように配慮すべきである。(プライス『祖国愛について』)

 


感想 

 


「国家のために死ぬ」という言葉を聞くことがありますが、ここから来ているのだと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『正義とは何か』 

 現代政治哲学の6つの視点

 神島 裕子著

 中公新書

 

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