とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

努力と教育

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル

 


「頑張り」研究の系譜

 


「頑張り」・努力主義は、主に教育社会学の分野で論じられてきました。

 


苅谷剛彦氏は努力主義のイデオロギー性を次のように指摘しています。

 


日本の教育を対象とした議論は、努力主義を強調し「だれでも同じように学校での成功に向けてがんばる(がんばらせる)しくみ」が作動してきたというイメージをつくり上げてきた。

 


しかし、いまや私たちは、そうした努力主義、より正確にいえば、努力=平等主義がひとつのイデオロギーにすぎないと指摘できる。[中略]

 


このイデオロギーの巧みさは[中略]社会階層の影響を、努力が平等に存在する「だれでもがんばれば・・・」という幻想によって隠蔽してきたことにある。(『階層化日本と教育危機』)

 


志水宏吉氏は著書 『学校文化の比較社会学』(2002年)で、日本とイギリスの中等教育を比較し、人間の社会行動のゆくえをその内側から規制する観念の束であるとされる教育「エートス」について両国の対比をし、その中で日本=「努力主義」、イギリス=「能力主義」であり、日本の社会は努力を重んじるのに対して、イギリスでは生得的な能力の違いに敏感に反応すると論じました。

 


本田由紀氏は『多元化する「能力」と日本社会』(2005年)で、1989年と2001年に実施した小・中学生への調査結果に基づき、1990年代以降、「がんばり」の内実が変化していることを指摘しました。

 


「がんばり」の内実は従来の「閉じた努力」から、新しい「開かれた努力」へと変質しつつあると考えられるのだ。

 


「閉じた努力」が、受験勉強を典型とするよう

与えられた目標に向かって反復練習などを通じて自分自身の単線的な向上を遂げることを意味していたのに対し、ここでいう「開かれた努力」とは、その時々の周囲の状況に応じて自分のあり方や目標を自ら選び取り、それに向かって最大限の

力をつくすような行動特性を意味している。[中略]「努力」そのものが「行動としての努力」から「能力(あるいは資質)としての努力」へと変化しつつある。

 


「努力」概念を苅谷のようなイコール「勉強」という見方から拡張して考える必要がある。[中略] 「勉強」以外の側面に「努力」が振り向けられるようになってきたために、勉強時間として表れる「努力」が減少してきた可能性さえある、と本田氏は主張しています。

 

 

 

さらに、教育社会学の領域以外でも、「格差社会論」において頑張りや努力が論じられています。

 


例えば、佐藤俊樹氏は論文「『新中間大衆』誕生から20年―『がんばる』」基盤の消滅」でSSM調査(社会階層と社会移動全国調査))データにより、現在「がんばる」基盤」が「消滅」しつつあると分析しています。

 


他方で 『希望格差社会』を著した山田昌弘氏は、タイトル通り「希望格差」という観点から現代日本社会を考察しました。

 


彼によれば、1990年ごろを境として、近代社

会は新しい局面に突入し、教育におい いても「せっかく頑張って偏差値の高い学校に行っても、そ んばりが無駄になるという可能性が強くなっている」ため、「現在の日本社会は努力が報われない機会が増大する社会となってしまった」といいます。

 


最近では松岡亮二氏が従来の格差社会論に異を唱え、戦後日本社会は大きく変動したが「いつの時代にも教育格差がある」(「教育格差』)と主張しています。

 


以上が、努力主義や頑張りについての研究概要の系譜です。

 


感想

 


こうしてみると、努力と教育のつながりの強さを感じます。

 


下記の本を參考にしました

 


『「頑張る」「頑張れ」はどこへいく』

 努力主義の明暗 

 大川清文著

 帝京新書

 

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