とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

教皇の地位

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、政治学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


両剣論

 


キリスト教共同体として発展したヨーロッパ社会

は、信仰を基盤とする社会であった。

 


しかしながら、キリスト教とは本来、 現世の世俗秩序を超えた非政治的な価値をめざす宗教であった。 そのようなキリスト教が信仰の問題にとどまらず、社会全体の基盤を提供することになった結果、世俗の秩序(帝権と王権)と聖職者の階層秩序(教権)とは鋭い緊張関係に立つことになる。

 


5世紀末の教皇ゲラシウス1世は、「両剣論」というかたちで、両者の関係を定式化した。

 


世俗の皇帝が教会の最高聖職者を兼ねる皇帝教皇主義がとられた東ローマに対し、西ローマでは教皇の権威と世俗の権力とが並立したのである。

 


両者はいずれも神に源を発するものであったが、それぞれの管轄すべき領域においては最高の存在であるとされた。

 


とはいえ、同じく神を源泉とする二つの「剣」のいずれが優位するかという問題は、つねに存在した。

 


とくに11世紀の叙任権闘争(教会聖職者の人事権をめぐる教会と世俗の君主との間の対立) 以後、対立は激化する一方であった。

 


皇帝が教皇権に介入し、教会が政争に巻き込まれる一方、教会内部の腐敗も目立つようになる。

 


これに対し、教会組織を自ら立て直そうとする聖職者の動きが始まった。 とくに有名なのがクリュニー修道会である。

 


このような教会改革運動を受けた教皇グレゴリウス7世の改革により、皇帝の教会人事への介入は退けられることになった。

 


ここに教皇は皇帝と肩を並べる存在となった。

 


象徴的なのは、1077年の「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件である。

 


教皇グレゴリウス7世神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世と対立したこの事件は、最終的には皇帝の屈服によって終わった。

 


決め手になったのは、教皇がもつ破門権である。

 


教皇がこの権利を行使した場合、キリスト教徒でなくなった皇帝に対する臣下の服従の義務も解除される。 このようにして、教皇権が皇帝権に優位する時代が始まった。

 


やがて 13 世紀の教皇インノケンティウス3世の時代に、教皇権はその最盛期を迎えた。 教会を統治する至高の権力はキリストからペテロへ、ペテロから教皇へと受け継がれたのであり、皇帝の権力もまた教皇権に由来するものであるという考えが現れた。

 


この考え方によれば、教皇は皇帝を含む、世俗の領主の行為を監督する権利と義務をもつ。

 


教皇は法の上にある存在であり、だれの裁判にも服さず、また最高の裁判権をもっている。

 


ゲラシウスの両剣論すらも超える教皇至上権の主張であった。

 


感想

 


ローマ教皇はニュースで報道されることはありますが、上記のような背景が影響していると思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『西洋政治思想史』

 宇野 重規著

 有斐閣アルマ

 

flier(フライヤー)