こんにちは。冨樫純です。
独学で、政治学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
古代一中世 近代?
395年に東西に分割されたローマ帝国は、その後二度と統一されることはなかった。
とはいえ、このうちとくに西ローマ帝国は、476年に早くも滅亡した。
古代地中海の統一的世界は、ここに終焉を迎えたのである。
そこで問題になるのが、歴史における時代区分である。 世界史においては 「古代中世近代」という三分法が長らく使われてきたが、このような三分法は現在ではかなり相対化されている。
これに対し、歴史の転換点としてはむしろ、古代地中海世界の終焉から内陸を中心とするヨーロッパ世界の成立へ という変化に着目する方が有力になっている。
しかし、それでは、いったいいつヨーロッパ世界は生まれたのであろうか。
もちろん、西ローマ帝国の崩壊が直ちにヨーロッパ世界の成立をもたらしたのではない。 西ローマ帝国の廃墟の上において、諸民族の諸王国の興亡が続いた。
さらに7世紀には、台頭したイスラム勢力が地中海の制海権を掌握する。 その結果、ビザンティン (東ローマ)とイスラムの両文明から切り離された、内陸中心のヨーロッパが取り残されることになったのである。
しかしそのことは、ヨーロッパ世界の一体性をなんら保障するものではなかった。むしろ、その後のヨーロッパ史を見ればわかるように、統一的な政治権力は、きわめて例外的な時期を除いて成立しなかった。 この時期にヨーロッパの一体性を保持したのは、キリスト教の教会や修道院のネットワークであった。
とくに注目すべきは、このような過程において、ローマの司教がやがて教皇と呼ばれ、ローマ・カトリック教会の頂点に立つ存在になったことである。
そもそも他の都市の司教と同格であったローマ
司教は、ローマが帝国の首都であったこと、また西ローマ帝国の滅亡後に秩序維持やゲルマン人の教化に努めたことから、全教会の中の最高権威を称するようになったのである。
使徒ペテロの後継者をもって任じたローマ教皇とカトリック教会(カトリックは普遍を意味する)は、やがて 「天国への扉の鍵」 を授かっているとさえ主張するに至る。
ローマ教皇に世俗の支配権を認める「コンスタンティヌスの寄進状」 (後に偽書であることが明らかにされる)なる文書も、8世紀半ばから9世紀にかけて作成された。
感想
キリスト教カトリックにとって教皇は、最高権威であることで有名ですが、この文章だけではなぜ最高権威になったのかはよく分かりませんでした。
そこが気になりました。
下記の本を参考にしました
『西洋政治思想史』
宇野 重規著
有斐閣アルマ