とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

どケチは非難されるべきか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


どケチは非難されるべきか

 


どケチに対する誹謗中傷は、経済学の初級教科書にすら出てく る。

 


それによれば、どケチは景気の回復を阻害し、不況の原因をつくり、失業率を上昇させる。

 


かの有名な、というよりいまでは悪名高い「貯蓄のパラドクス」によって、お金の貯めすぎは個人や家計にとっては合理的でも、経済全体にとっては愚かな考えだと、経済学部の新入生たちは教えられているのだ。

 


世のケインジアン(ケインズ派の経済学者)は、貯蓄が増えれば増えるほど消費が減り、みんながお金を使わなくなれば仕事も減る、などとほざいている。

 


われわれは、そろそろこのホラ話から卒業すべきだ。

 


貯蓄には多くの、そしてさまざまな利益がある。

 


翌年に植えるトウモロコシの種をはじめて保存し

た洞窟暮らしの原始人に、 わたしたち人類はどれほど感謝してもしすぎることはない。

 


文明の進歩は、富を一気に使い切ることなく、必要なときのためにとっておいた家、守銭奴、どケチの努力に負っている。

 


「どケチはふつうの人よりも金持ちであることが多い」というのはもちろん事実である。

 


だからこそ彼らは世の敵意を駆き立て、金を貯めこむという行為そのものがいわれなき汚名を着せらりている。

 


だが、この敵意は間違っている。

 


わたしたちが資本主義経済から得る利益は、どケチがいくら蓄財したかに密接にかかわっている。

 


たとえば、アメリカ人がボリビア人よりも豊かなのにはいろいろな理由がある。

 


教育や健康、仕事への意欲なども、もちろん重要な役割を果たしている。しかしもっとも大きなちがいは、アメリカ人がボリビア人よりもより多くの資本を貯めこんだことにある。

 


これは例外的なケースではない。貯蓄は人類の長い歴史を通じて、わたしたちを奴隷状態から解放するのに大きな貢献を果たしてきたのである。

 


ここで、「貯蓄とはちがう」との反論があるかもしれない。貯蓄は「資本の蓄積」という生産的な行為で、その資本をさまざまな産業に投資して経済を活性化させる。

 


それに対してどケチは金を使わずにタンス預金するだけで、それはなにも生み出さない不毛な行為である、彼らは言う。

 


どケチがいると、小売店が受けとるお金が減る。

 


儲けの減った小売店の親父はアルバイトをクビにし、問屋への注文を減らす。

 


経営の悪化した問屋は従業員をリストラし、メー

カーへの発注量を減らす。

 


するとメーカーは経営危機に陥り、どケチのせいでこの悪循環が延々と繰り返されるのだから、彼らは経済の発展にとって邪魔であるばかりか、その身勝手な行動は破壊的ですらある。

 


こうしたケインジアンの主張は一見もっともらしいのだが、重要なことを見逃している。

 


それは、価格の変化である。

 


もしもある商品が売れなくなったら、小売店の親父はアルバイトをクビにしたり問屋への注文を減らしたりする前に、価格を下げて販売しようとするだろうし、(それは歳末セールかもしれないし、優待券かなにかのサービスかもしれない)。

 


商品そのものに欠陥があって売れないのでなけれ

ば、この方法で失業と不況の悪循環を断つことができる。なぜだろう?

 


その定義上、どケチは商品市場でお金を使うのでもなく、資本市場でお金を投資するのでもないのだから、経済学的には、彼らの存在は通貨の流通量を減らす効果を持つ。

 


市場で購入できる財やサービスの量が一定ならば、価格を決めるもっとも大きな要素は商品と通貨の関係だから、理論的には、どケチがいることによってモノの価格は下がっていく。

 


モノの値段が安くなることに、いったいどんな問題があるというのだろう。

 


ケインジアンの理屈とは逆に、どケチではないふつうの人々にとって、あらゆるモノやサービスが安価に手に入るというのは大きな利益ではないだろうか。

 


感想

 


筆者はどケチ非難されるべきではないと言いますが、ぼくは、ケインジアンの主張の方が説得力があると思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)