こんにちは。冨樫純です。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
か弱き権利を守るヒーロー
満員の映画館で「火事だ!」と叫び、我先に出口に殺到する観客たちの慌てぶりを眺めたいサディストの権利はどうなるのだろう。
または「火事だ!」と叫んだあとの大混乱のなかで押しつぶされ、踏みつぶされそうになりながら出口へと向かう快感を夢想するマゾヒストの権利は?
法律による禁止のもとでは、彼らが熱望する 「至上の快感」を手にする可能性はあらかじめ失われている。
だが柔軟な市場経済であれば、需要のあるところに供給が生まれる。
満員の映画館で「火事だ!」と叫んでみたいというサディストやマゾヒストの需要があるのなら、企業家は十分な対価を得て、必要なサービスを提供しようと考えるだろう。
わたしは変態さんたちのために、「火事だ!」と叫ぶことを許された映画館があってもよいと考えるのだが、この議論は多数派の人たちにとってはたんなる無駄話としか思えないだろう。
それも当たり前で、彼らは虐げられた者たちの苦しみを、侮蔑や嘲笑をもって眺めることしかして
こなかったからだ。
他人の権利を暴力的に侵害しないかぎり、成人した変態さんが他人と合意のうえで契約を結ぶ権利は100パーセント認められるべきである。
彼らの権利をなんの価値もないものとして一笑にふすのは、多数派のあなたたちがファシスト的な考え方に染まっている証拠だ。
変態さんたちは、それが非暴力的なものであるかぎり、どのような退廃的な快楽に耽っても自由だ。
〝良識ある"多数派の人々は、映画を観にいくときに、「予期せぬ突発事故」が許可されている劇場を避ければいいだけだ。
もちろ ん変態さんが多数派の劇場に行くときは、彼らの燃え上がるような欲望を抑えなくてはならない。
自由な社会でも、満員の映画館で「火事だ!」と叫ぶことは契約によって禁止することができる。
だがそもそも言論の自由とは、ほかの「至高」の権利映画を邪魔されたり、出口で押しつぶされそうになったりしない権利―と対立するかもしれないなにかなのである。
言論の自由は弱い葦である。それは常に抑圧の危機にさらされている。わたしたちが手にした権利は、驚くほどか弱いものだ。
それゆえ、その権利をさらに弱めようとするあらゆる試みには断固として反対しなければならない。
感想
わたしは変態さんたちのために、「火事だ!」と叫ぶことを許された映画館があってもよいと考えるという筆者の意見は極端だと思います。
ただ、賛同はできませんが、おもしろいと思います。
下記の本を参考にしました
『不道徳教育』
ブロック.W 他1名