とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

恐喝者を肯定する

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


世の中は恐喝者だらけ

 


「恐喝はほんとうに違法なのか?」

 


この疑問にこたえるのは、一見、それほど難しいことには思えない。

 


起こりうる唯一の問題は、 「なんでそんなバカなこと聞くんだ?」と逆に詰問されることくらいだろう。

 


「恐喝は犯罪だよ。なんでって? ええと……、だって恐喝だろ」

 


恐喝者は人々の隠された暗い秘密を餌食にする。

 


彼らはその秘密を暴露し、公表すると脅す。

 


犠牲者から金を巻き上げ、 しばしば自殺に追い込む。

 


しかしながらわれわれは、恐喝に敵対する主張が正確な分析に基づいていないことをここで示したい。

 


それらの議論は、裏づけのない思い込みや誤解の集積に基づいている。

 


恐喝とはなんだろうか?

 


恐喝は、取引の申し出である。より正確には、「なにかあるもの(通常は沈黙)と、ほかのなにか価値あるもの(通常は金) の取引の提示」と定義できる。

 


もしこの申し出が受け入れられれば、恐喝者は沈黙を守り、恐喝された者は合意した代金を支払う。

 


もしこの申し出が拒否されれば、恐喝者は言論の自由を行使して秘密を公表する。

 


この取引には、なんら不都合なところはない。彼らのあいだで起きたことは、沈黙の対価としていくばくかの金を請求する商談である。

 


もしこの取引が成立しなくても、恐喝者は合法的に言論の自由を行使する以上のことをするわけではない。

 


ゴシップ記者は恐喝者よりもたちが悪い。

 


「恐喝者は対価に応じて事実の公表を差し控える」ということである。その意味で、恐喝者は、恐喝される者に沈黙のチャンスを与える。

 


ゴシップ記者は警告なしに秘密を暴露してしまう。だとすれば、世間の目にさらしたくない秘密を持っている人にとっては、ゴシップ記者よりも恐喝者のほうがマシではないだろうか。

 


ゴシップ記者に秘密を握られれば、すべてを失ってしまう。

 


恐喝者ならカネでかたをつけることができるかもしれないし、失敗しても状況がより悪くなるわけではない。

 


恐喝にあった人は、請求された金額が沈黙に見合うなら恐喝者に対価を支払う―これは二つの悪い可能性のうち、よりマシなほうだから、沈黙の価値と恐喝の代金との差額は彼の利益になる。

 


一方、恐喝者が沈黙の価値よりも多額の金銭を要求したときは、その取引は成立せずに秘密は公になるだろう。

 


しかしながらこの場合でも、恐喝の被害にあった人は、執念深いゴシップ記者につきまとわれたときよりも悪い結果にはならない。

 

 

 

もっとも、だからといって恐喝者に対する怒りが多少なりともやわらぐ、というわけにはいかないだろうが。

 


恐喝は、必ずしも金と沈黙の交換というわけではない。それがもっともよく知られた形式であることは間違いないが、恐喝の本質は、金とも沈黙とも無関係に定義することができる。

 


一般的に言うならば、恐喝とは、「なんらかの要求に応じなければ、なにかあること(それ自体は非合法ではないこと)が行われる」と脅すことである。

 


そう考えると、世の中にはじつに多くの恐喝が行われていることがわかる。

 


そのうえ彼ら恐喝者たちは、非難されるどころか、しばしば尊敬されたり拍手喝采を浴びたりするのである。

 


スポーツ用品メーカーのナイキは、ベトナムの下請け工場で十代の児童を不当に安い賃金ではたらかせていたとして、全世界的な不買運動の標的となった。

 


NGOの活動家たちはナイキに対し、「労働条件を改善せよ。さもなくば大規模なボイコットを求めるキャンペーンを行う」と警告した。

 


この行動は、先の恐喝の定義を完全に満たしている。

 


感想

 


恐喝者を肯定するのは、説得力に欠けているので、難しいと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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