こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 伝わらない悩み
DVには、悩んでいる本人も、自分を「被害者」とは認識しなかったり、どういうことをされているか誰にも打ち明けなかったり、相手との関係を絶ちにくかったりするという特徴がある。
もし、街角で知らない人に殴られたり、脅迫されたりした場合なら、不当な暴力や脅迫に怒りを覚えるだろうし、警察を呼んでその人を処罰してもらいたい、と考えるだろう。
しかし、親密な間柄にある相手が自分を傷つけ、抑えつけようとしても、「この人は何かつらいことがあるのだろうか」と、心配してしまうかもしれないし、恐怖や屈辱を感じたとしても、さっさと警察につきだして罰を受けさせたいという気持ちになりにくい。
周囲の者も「あなたが相手を怒らせているのだ」と諭し、「あなたさえ我慢すればよいのだ」と別れないようアドバイスすることが多い。
被害の当事者は自分のせいだと思い、相手を怒らせないようにしなければという、「感覚が麻痺」した状態に陥ってしまうのだという。
こうしたことが起こるのはなぜか。
単にその人の個人的な性格、心理状態だけの原因ではなく、そうさせてしまう社会的な構造がある。
まず、本人も周囲の者も含めたこの社会に、夫婦や恋人の間のことについては、特別にそれを許し、見逃すとらえ方が根深くあるからだ。
よりくわしくいえば、とくに男性が、親密な女性に対し、そうしたおこないをすることは許される、という意味と、夫婦や恋人の間柄では何が起きても、他人が裁定すべきではないという意味、たとえ抑圧や暴力があろうとも、結婚生活を維持することは大切だ、というような社会通念があり、親兄弟や知人、家庭裁判所の調停委員などから繰り返しそうした反応や助言を受けてしまう、などのことだ。
法律ができたからといって、多くの人にとって、DVは今でも理解しにくい問題、受け入れにくいテーマであることにかわりはない。
実際のケースを前にすると、法律にもとづいて仕事をする裁判官や警察官、役所の職員たちですら、さまざまな反応をすることも確かだ。
それには、支配や抑圧を含んだ夫婦(恋人)関係を支持し、容認する人が多いことが関係している。
1999年の名古屋市民に対するアンケート調査では、「妻が病床についているときでも家事はせず妻にさせること」について、「してもよいと思う」「どちらかといえばしてもよいと思う」のどちらかに○をつけた人は、男性の回答者では47.6%にものぼる。
さてしかし、DV問題のむずかしさは「古い男尊女卑の考え」だけから発生しているとはいえないかもしれない。
親密な関係については判断を停止してしまう人々の態度は、むしろ新しい土台のうえにつくられている部分もある。
私たち現代社会に生きる者は、自分でない誰かが、誰かに対して抱く性的な気持ちや恋愛感情を同じ当事者として共有することはできない。
と同時に、特定の誰かに対する嫉妬や嫌悪の感情も、同じように感じることもできない。
共有しないけれども、勝手に介入したり意見をいったりもせず尊重する、という態度、価値観はむしろ最近のほうが強くなっているかもしれない。
「自分には全然好みじゃないけれど愛しあっているのなら祝福しよう」とか、「友人がろくでもないヤツと恋に落ちても、友人の恋心をあれこれいうべきではない」という態度。
そして、その恋人たちが別れる、別れないでもめたとしても、やっぱりどっちの味方もしないでお
こう、という態度。
そうした態度はしかし、皮肉にも人権侵害を見逃し、介入をとどまらせてしまう。
感想
DVもそうですが、児童虐待も同じような傾向があると思いました。
他人がプライベートなことに口出すべきではないというような慣習です。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著