とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

解放としての恋愛

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 解放としての恋愛

 


そもそもなぜ恋愛は魅力的なのだろうか。

 


「恋愛」の概念は、日本では明治時代になって欧米の文化的影響を受けることで発生した。

 


もちろん、それ以前に男女が互いに情緒的・性的に深いコミットメントをすることがなかったわけではない。

 


しかし明治になって到来した「恋愛」は、ロマン

ティックで理想主義的な観念に裏打ちされた、一対の男女の主観的で個人的な愛情の発露であるだけでなく、伝統や慣習に縛られた共同体の対人関係を覆すものである点において、それまでの男女の愛の形式とは異なっていた。

 


北村透谷の文学評論などに知られるように、明治の青年男女は「恋愛」のすばらしさを讃えたが、それは西欧の風俗慣習への憧れからだけではなく、恋愛が家や地域の共同体的拘束や旧来の価値観の重圧から個人を析出させ脱出を可能にする水路でもあったからなのだ。

 


当時の文脈のなかでは、恋愛とはまず反社会的であるがゆえに解放であり、非日常的で稀少なものであるためにすばらしいものだったのだ。

 


現代では恋愛はそれだけでは反社会的なものでも非日常的なものでもない。

 


しかしそのメンタリティは今も女性にとって無縁ではない。

 


女性にとって恋愛とは、しばしば日常、しかも拘束の大きな日常からの解放・脱出として映る。

 


現代の親たちは、成長した子どもにあまり干渉しなくなったものの、それでも、女性は成人となっても物理的・心理的に親の愛情と保護のもとにありがちであり、それはときに息苦しい拘束、干渉と感じられたりする。

 


そんな若い女性たちにとって、男性と一対一の親密な関係をもつことは親の支配下からの一種の「独立」であるし、恋人との夜遅くまでの外出や親に内緒での旅行は、まさに日常からの解放だ。

 


そして、とりわけ現代の女性たちにとって恋愛を魅力的にしているのは、恋愛とそれに結びつく結

婚が、人生の「リセット」を可能にするかのように、いいかえれば 「究極の脱日常」をプレゼント

してくれるように、感じられることだ。

 


新鮮さが消え、将来の希望の感じられない職場に飽きて、「自分らしさ」を生かせる仕事への転職や留学を試みる女性たちも多いが、そんなことをしなくとも「自分を愛してくれる人」から望まれて、現状を脱出し人生の軌道を大きく変えることができるなら、なんとラッキーなことか。

 


名字が変わり、住まいも自分好みに、そしてこれからつくる新たな家族と人生への希望に満ちて、今度こそは自分が主役になれる、そんな気がするのも無理はない。

 


しかしいうまでもないが、その「独立」 「脱出」 はしばしば、夫という新たな 「保護者」の支配下に、しかもほとんど一生を通じて変わらぬ従属的地位に自らをおく結果にいたることがしばしばなのであるが。

 


感想

 


ぼくの感覚からすると、恋愛も結婚も開放どころか、拘束だと思います。

 


人と付き合うことは少なからず、自分本位では行動できないと思うので。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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