こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 「家事・育児」という"無償労働"
「専業主夫」たちの体験記を読んで感じるのは、「家事・育児」という労働が、それまでの仕事に
追われる生活と比べれば、それなりの楽しさや新しい発見をもたらす労働であるということだ。
しかし、この労働は、楽しいばかりではない。
慣れない仕事が生み出す無力感、先が見えないまま同じような瑣末な作業を繰り返すことから生じるイライラ、家族から「労働」として十分な評価が得られないことへの不満などなど、家事・育児労働が生み出すストレスもまた、家庭外の労働とは違った苦痛があるのだ。
実際、「働く主夫」の生活をしているぼくも、このたいへんさは身に染みてよくわかる。
子どもが小さいときは夜泣きに悩まされたり、深夜オムツを部屋の中で干す作業をえんえんと続けたものだ。
今でも、帰りの電車の中で、「さて、なにか買い物はないかな?」と考えたり、論文の構想をたてながら「明日の朝ごはんは何にするか?」てなことが頭をよぎったりする。
いわば24時間労働なのだ(まあ、これはこれで息抜きになって、楽しいところもないではないのだが)。
おまけに、家事労働や育児の作業というのは、毎日毎日繰り返されることだけに、なんだか「あたりまえのこと」のように家族から見られている。
ほんとうは、こうした労働が存在しないと生活は成り立たないのだが、たいていの場合、いつのまにか、まるで「自然に」成り立ってしまっているように思われているのである。
こうした労働は、それに携わらない人々にとっては、いわば、空気のようなものなのだ。
こうして「自然化」してしまったことで「見えない労働」になってしまった家事・育児労働だが、実際にこれに従事する者にとっては、かなり神経をつかう労働なのだ。
一見のんきな労働に見える家事・育児労働のしんどさは、やっぱりやったものに、 わからない。
ぼくも、すでに書いたように、「働く主夫」として、朝ごはんはたいてい毎日つくっている。
しかし、「朝起きたら、朝ごはんが準備してある」ということが、どうも家族の皆さんには「あたりまえ」のことで、誰が、この準備のための労働をしているのかが忘れられていると思うことがよくある。
そこで、あるとき、「おまえら、誰にメシを喰わせてもらっていると思っているんだ」と言ったことがある(もちろん冗談で)。
ただし、世の男性たちがよく言う「生活費を誰が稼いでいるのか」ということではない。
頭の中でこだまする「ゲンコー・ゲンコー」という編集者たちの叫び声や、「授業の準備はもういいのか」という囁きを無視し(というより、ほんとうはそこから家事に逃げて)、「早く仕事を仕上げなくちゃ」という思いにストレスをためこみながら、まさに涙ぐましい努力の上にできあがった朝ごはんを、"誰がつくったのか"ということなのだ。
この思いを少しでも共有してもらいたいという気持ちが、まあ、こんな言葉を口走らせたわけだ。
だが、残念ながら、「なにバカなこと言ってんのよ」というのが、家族の皆さんの反応だった。
たぶん、ぼくも同じようなことを、つれあいや子どもたちに対してやっているのだろうとは思う。
しかし、そうした反省も、自分で家事や育児をした経験があればこそのことなのだろうとも思う。
いずれにしても、家事、育児、さらに介護という「あたりまえ」のように受けとめられている労
働を担うということは、「公的」で「社会的」な「承認」のもとにある労働よりも、評価されない
ということは事実なのだろう。
男性たちの中からは「いや、自分は、家事労働というものが、人間として生きていくために大切
なものであることはよく知っているし、評価もしている。
だから、心の中では、いつも妻に感謝している」という声をよく聞く。
しかし、家事・育児労働が、ほんとうに人間にとって重要で意味ある労働ならば、なぜ、自分たちはこの重要な労働から逃げるのか、また「心の中で感謝している」というなら、なぜ、自然に「感謝」の言葉が出ないのか、という疑問もわき上がってくる。
たぶん、こんな思いを抱いたのも、ぼくが「働く主夫」として、 主夫体験をしなかったら見えて
こなかったことだろうとは思うのが・・・・・。
感想
家事、育児、さらに介護という「あたりまえ」のように受けとめられている労働を担うということは、「公的」で「社会的」な「承認」のもとにある労働よりも、評価されないということは事実なのだろうという箇所が印象的でした。
なぜ評価が低いのだろうかという疑問は残りました。
下記の本を参考にしました
『男性学入門』
伊藤 公雄
作品社