とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

「女」の心をもつ「男」

こんにちは。冨樫純です

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  アグネス―「女」の心をもつ「男」

 


ぼくの専門は一応、社会学ということになっている。

 


この社会学の中に、最近になって大きな広がりを見せはじめている「エスノメソドロジー」とい

う、ちょっと舌を咬みそうな名前をもった研究スタイルがある。

 


この「エスノメソドロジー」、簡単にいえば、われわれの日常生活において、「常識」というものがいかにして作られるかという問題を対象にして発展した社会学の一分野なのである。

 


このエスノメソドロジー創始者といわれるのが、ハロルド・ガーフィンケルという社会学者だ。

 


彼の初期の研究に、『アグネス』と題した論文がある。

 


タイトルのアグネスとは、彼がカウンセラーとしてかかわったある「女性」の名前である。

 


彼女の様子をガーフィンケルは、次のように描いている。

 


スリムでとても女らしいプロポーションをしていた。 サイズは上から93・63・96、細くて長いダークブロンドの髪で、 かわいらしく、若々しい顔をしていた。

 


肌はピンクで、顔には産毛もなく、眉毛はかすかに引き抜かれており、口紅の他にはなにも化粧をしていなかった。

 


はじめて現れたとき、ほっそりした肩と豊満な胸と細いウエストをきわだたせるタイトセーターを着ていた。

 


足や腕は女性にしてはやや大きめだったけれども、目立つほどではなかった。

 


ふだんの服装は、その年齢や階層の典型的な女の子と少しもかわりなく、少しのけばけばしさも露出気味なところもなかった。

 


ところが、彼女は、生物学的には、「十分に発達したペニスと陰嚢をもつ」男性だったのだ。

 


しかし、本人は、「自分は女である。男として生まれたのは間違いだった」という強い思いをいだきつづけていた。

 


彼女は、成人したのを機会に性転換の手術を受けるために病院へおもむき、そこで事情を聞くためにカウンセラーとして対応した、ガーフィンケルと出会ったというわけである。

 


ガーフィンケルは、彼女の話の中から、多くの興味深い事実を発見している。

 


「男性的役割は自分に向いていない」と考えつづけていた彼女は、ハイスクールを中退し、ロスア

ンジェルスで女性として暮らすようになった。

 


その「女性ぶり」は、身近な友人の誰一人として、彼女が生物学的には男性であるなどと疑いをはさむことがないほどに、完璧なものであった。

 


アパートの同室の女性の友だちも、ボーイフレンドも、彼女の肉体が男性のものだとは気づかなかった。

 


ガーフィンケルは、ここから「パッシング」という概念を導き出している。 自分をとりまく常識

的な世界で、女として「パス」(通す)するためのさまざまな作業についての議論だ。

 


それは、彼女にとって、「社会生活を織り成すさまざまな条件の中で生ずるかもしれない露見や破滅の危険に備えながら、自分が選択した性別で生きていく権利を達成し、確保していく作業」だった。

 


この『アグネス』論文は、ぼくたちに、いくつかの新しい視点を提供してくれるように思う。

 


一つは、しばしば考えられているように、この世界には男と女の二つの性だけがあるのではなく、

肉体的には男でありながら、精神的には女であるという性のあり方があるということだ。

 


それはまた、ぼくたちの常識的な世界での[男/女]という認識が、必ずしも生物学上の区別に基づかない場合がある、ということでもある。

 


もっといえば、ぼくたちが考えている性のあり方というものが、単に生物学的なものではなく、社会的に構成されたものでもあることを、このアグネスの例は教えてくれていると思う。

 


彼女が「女性」として「通用していた」ことは、とりもなおさず、ぼくたちが、「男とはこういうもの」、「女とはこうあるべきもの」という、社会的に共有された意味の世界にしばられているからだ。

 


そして、アグネスは、この社会的に共有されている「女」のイメージに従ってふるまうことで、生物学的には「男」でありながら、「女」として社会的に認知されていたのである

 


感想

 


現代では、それ程珍しいとは感じませんが、この当時はそうではなかったと想像できます。

 

 

 

男性学入門』 

 伊藤 公雄

 作品社

 

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