こんにちは。冨樫純です
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「濡れ落ち葉」の人生
さて、なんとか定年離婚にはいたらず、老妻と老後を無事に迎えられた場合でも、定年後の男たちの仕事がなくなった生活には、さまざまな苦難が待ち受けている。
それまで「仕事人間」として頑張ってきた男性たちの生活スタイルは、定年後の男たちの生活に大きな変化をもたらす。
なにしろ自分のアイデンティティを支えていた「仕事」「肩書」「名刺」がなくなるのだから、その精神的ショックは大きい。
それは、ある種の空虚感をもたらすだろう。
実際、定年退職直後、病気になったり、退職後2年以内に亡くなったりする男性が多いといわれる。
会社はなくなっても、家庭に自分の居場所があるわけでもない。
仕事第一で、家庭でのコミュニケーションもろくにしないままに、「妻は黙っていてもわかってくれているはずだ」と思い込み、家事や育児は妻にまかせっきりでやってきた男性たちだ。
テレビのスポーツ観戦と接待ゴルフ以外の趣味もなく、仕事以外の友だち関係もほとんどない。
PTA活動や自治会活動などの地域活動は妻まかせ、そのため地域に知り合いもほとんどいない。
こうした男性たちが老後を迎えたとき、待っているのは、「濡れ落ち葉」の人生だ。
妻たちは、日ごろの「生活人」の日常の中で、地域社会に自前のネットワークをつくっている。
心配事の相談に親身にのってくれる人、一緒に旅行を楽しむことのできる友だち、同じ趣味をもつ
仲間……。
そうした友人・知人は、一般に夫たちと比べてはるかに多いはずだ。
また、子どもたちとのコミュニケーションも、夫たちとは比べようもなく深いだろうと思う。
というのも、日本の男たちは、生活費を稼ぐ「父親である (being father)」ことはあっても、子育てをしながら深い感情的な絆を子どもとの間につくりだす「父親になる (becoming father)」ことを、これまで避けつづけてきたからだ。
結果は、妻にまとわりつき、「掃いても掃いても、まとわりついて離れない~濡れ落ち葉 」などと揶揄されることになる。
あるいは、妻たちが出かけようとすると、ワシも。といってつきまとう「ワシも族」になったり、「ワシのメガネは」「ワシの新聞は」と、何かというと「ワシ」を主張する「ワシ男」として迷惑がられたりすることになる。
こうした「濡れ落ち葉」の男たちは、女性たちにはおおいに迷惑だ。
最近話題の「主人在宅ストレス症候群」などは、その典型といえるだろう。
カウンセラーの清水博子さんの書いた『夫は定年(うろうろ)妻はストレス(イライラ)』(青木書店)は、とくに定年後の「夫在宅ストレス症候群」についての興味深いレポートになっている。
そこにみられるのは、「夫と家にいるのがたまらない」「夫が憎い」「たまに一日ぐらいどこかへ行ってくれれば、どんなにか私は気が楽なのに」といった、妻たちの叫びともグチともつかない声だ。確かに、夫たちが外で働いている頃には、食べるものも自由に選べるし、外出も気軽にできた。
やがて、それが、定年後、夫が家にいるようになると、夫に気を使わざるをえなくなる。
本当の「自分」が失われてしまったように感じ、ストレスがたまっていく。
こうしたケースは、いわゆる「自立」した意識をもった女性よりも、夫を「主人」と言って「たてる」ことが身に染みついている妻に多いという。
「主人在宅ストレス症候群」と呼ばれるのは、そうした理由からだ。
清水さんは、「主人」という言葉があまり好きでないようで(ぼくも嫌いだが)、この本では「夫在宅ストレス症候群」と呼んでいる。
それにしても、自分の定年後に、妻たちが次のように感じているということに、世の定年後の「ご主人」たちは、どんなふうな感想を抱くだろうか。
こんな気持ちは初めてなのですが、もうこのまま家にいるのがたまらなくて……。私が妻として至らないのだと思いますが、本当に主人といっしょにいたくないのです。
そうかといって、今さら別居だの離婚だのは考えられません。私の心構えがいけないのだろうと思いますが、どうにもうっとおしくてたまりません。
近ごろは顔を合わせないようにしていますし、ほとんど目を合わせることもしません。
しかし、向こうは私のそんな変化にも全然気がついていないようで態度が変わらず、その姿を見ると、また私はイライラしてしまいます。
感想
熟年離婚と言われますが、このような背景があるのだと思いました。
下記の本を参考にしました
『男性学入門』
伊藤 公雄
作品社