とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

貨幣と権力

こんにちは。冨樫純です

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 貨幣と権力

 


ジンメルが指摘しているのは、吝は吝でも、何か明確な目的があって物を節約したりお金を倹約したりする(たとえば、マイホームをもつ夢のため水道代や電気代をけちるなど)態度ではない。

 


できるだけお金を自分のもとにおいておきたいということそのものを自己目的とする心的態度を指摘している。

 


では、どうして人間は貨幣をできるだけ自分のもとにおいておくことを自己目的とするような態度に陥るのだろうか?

 


それはたんに「お金があれば何かと便利」とか「いざというとき安心」ということ以上の意味があるようだ (そのことをジンメルは、「究極目的」としての貨幣の「絶対的価値」は、「たんなる効用享受を越えるもの」だと表現する)。

 


貨幣の「抽象的性格」が帯びる意味をもう一度確認しよう。

 


貨幣はそれ自身では何の質的な利用価値をもたない。それが何かと交換されることによってはじめて貨幣は、それ自身の量的価値を現実化する。

 


「貨幣の抽象的な性格、貨幣がそれ自体いっさいの個々の享楽から隔たっている距離は、貨幣についての客観的な歓び、すべての個々の人格的な用益をはるかに超越する価値の意義を助長する。」

 


たとえば一億円という貨幣の価値は、客観的にそれによって手に入るもの以上の価値の感覚を私たちに与える。

 


そこで貨幣は、権力の意義と一致する。

 


ここでいう権力とは、実際行使される力以上のものを指している。

 


ジンメルは権力を「能力そのもの」と定義する。

 


その意味は「能力は、主観的にのみ予期できる将来の魅力を、客観的に現存する現在の形式に集積する」のであり、そのことが権力の本質だということである。

 


真に権力をもつ者とは、何か具体的な権力行使を行なった事実そのものではなく、(彼がその気になれば)いつでもそして確実にそのことを行なうことができるのだ、ということを本人もそしてまわりの人間も了解している人物をいう。

 


ジンメルは、「可能性」あるいは「できる」という語が、ある〈幅〉をもつことを指摘する。

 


つまり私たちは、「私はピアノを弾くことができる」という意味から「3回続けてサイコロの3の目を出すことができる」までの幅があるわけだ。

 


つまり、ピアノを弾くことができる、という場合の「できる」は、その人が内在的能力として潜在的に保持している能力が現実化される

 


「可能性」が非常に高いのに対して、「サイコロ」の場合は、内在的能力の潜在性はほとんどあてにできず、不確実性の度合いがきわめて高い(しかし「可能性」はゼロではないのだ。

 


感想

 


権力を「能力そのもの」と定義するという箇所がおもしろいと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス

 

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