こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
他者との関係を築く条件
人が「見知らぬ他者」と出会ったとき、なんとかその他者と関係を形成していくことができるためには、どのような基礎的条件が前提になるのかということを見ていくというかたちで発せられている。
これは、ちょっとみると「何でそんなこと考えなきゃならないの?」といいたくなるような問題にも思えるが、実はナカナカ面白い問いなのだ。
そのことをたとえば次のような例で考えてみよう。
私たちははじめて参加する場所(入学したての学校のクラスやサークルなど何でもいい)に身を置いたり、どういう人間かよくわからない他人と交流をもたなければならなくなると最初とても緊張す
る。
人にもよるかもしれないが、できればその場から逃げ出したくなるという人だっているだろう。
しかしたいていは、何となくしだいにその場や当のメンバーになじむことによって自分もその集団の一員となっていくことができる。
とはいえ、もちろん運悪くどうしてもその場になじめず、その集団やメンバーから離れてしまうことだってある。
出入り自由な集団ならそれでもいいだろう。しかし学校や職場といった、そこから外れてしまっては自分がかなりのダメージを負う集団からの逸脱は、たとえそれが自分の意志であっても大きな傷を残すことになるだろう。
他者との関係をうまく作れるか、そうでないかということは人間が生きていく上でとても本質的な意味をもつ。
ジンメルがここで立てた問題は、実はこうした他者との関係をうまく作ることが可能になる条件について考察しているともいえる。
ここにはまず「他者」という存在に対するある種の見方が前提となっている。それは、ひと言でいって、他者とは自分にとってとらえつくすことができず、ときには自分の存在を脅かす対象だ、ということである。
これは、ジンメルに固有の見方というよりは、もっと広く、とりわけ近代ヨーロッパの知識人には広く共有されている感覚だともいえる。
しかもここでいう他者とはイコール「他人」ではない。
自分以外の人間はすべて、つまり親や兄弟といった家族、ふだんよく見知っているはずの友人などもすべて「他者」なのである。
この感覚は日本人であるわれわれにはちょっとなじみにくいかもしれないが、それでも若い人たちには理解しやすいだろう。
世代が若くなるにつれて、たとえどんなに親しい家族や友人であっても、決して互いに知りえない部分や脅かされる側面が存在することに敏感であるようだ。
ジンメルの他者感覚もそれに近いかもしれない。
ここでちょっと話を広げて考えたい。
ここでいう他者であるという性質そのもののことを「他者性」と呼ぶことにする。「見知らぬ他者(=他人)」に対しては、私たちは容易に「他者性」を感じることができる。
しかし、「身近な他者」についてはどうか。
ややもすると私たちは相手の気持ちや価値観などを「こうである」と決めつけたり、自分と同一視したりすることはないだろうか。
自分の子供のことなら何でもわかっていると錯覚している親や学校の先生、自分の息子の奥さん(=
嫁)に対して自分たち(家)の価値観に何でもしたがわせようとする(かつての?)男や姑。
いずれも「身近な他者」についてその「他者性」を忘れているか、あるいは認めようとしない例である。
感想
他者とは自分にとってとらえつくすことができず、ときには自分の存在を脅かす対象だ、という見方がおもしろかったです。
人見知りの感覚がこれに近いと思いました。
脅かされそうで怖いという感じです。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁