こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
自分をほんとうにわかってくれる人はいるか
さて、「自分探し」という言葉がある。
この言葉は肯定的にもまた批判的にも理解されている。
肯定的にという意味は、いまの自分に満足しないでもっと自分を高めようという態度が、生に対する積極的な姿勢として評価されるという点で。
批判的にというのは、ほんとうの自分探にこだわりすぎることによって、常にいまの自分を否定的にしかとらえられなくなり、「生」を損なってしまう危険を伴う場合があるからだ。
自分探しの心性の一つの典型を、たとえば次のようにいうことができるだろう。
いまの自分はほんとうの自分ではない。
ほんとうの自分の「生」はもっと輝き充実してい
るはずだ。そうしたほんとうの自分に出会えなければ、せっかくのこの私の人生がなんとなくむなしく感じられてしまう。
だから、「いま・ここの自分を取り巻いている環境や自分を縛っている考え方のスタイルを一度全部チャラにして全く新しい自分、だれとも違う個性的な私を探し直すことはできないだろうか」
このような考え方に多かれ少なかれ囚われたことはないだろうか(ちなみに私の場合はこうした考えに囚われたことは、一度や二度のことではないような気がする)。
自分探しとは「ほんとうの私」を求めるゲームであるととりあえずいえるだろう。
私たちは、ほかのだれとも違うユニークな個性や
主体性を発揮しなければ、生きるに値しない人生だといった価値観をいつのまにか受け入れがち。
しかし、一方で私たちはほかの人間とは全く違う個性を発揮することなどできないということもう
すうす知っている。
「ほんとうの私」探しはいわば、上がりのないすごろくゲームのような性質を帯びがちだ。
私たちが生きているこの現実の内側で、このゲームが「上がり」に到達することは決してない。
だとしたら「自分探し」とは所詮ムダなことであり、「ほんとうの私」とは所詮求めてもしょうがない見果てぬ夢なのだろうか?
いや、私は必ずしもそうは思わない。
「自分探し」は「ほんとうの私」というゴールがどこかに、実体的にあるはずだと理解される限りでは、それはかえって自分を息苦しくする袋小路に人を追いやる危険があるかもしれない。
しかし「いま・ここ」の私を越え出て、もっと違う私を求めたいという欲求それ自体は、「(生きる)意味を求める」存在としての人間の(ある意味では)とても本質的な側面を指し示していると考えられる。
しかもこの問題がやっかいなのは、ほかの人間との関係性という項を入れて考えなければ、どうしてもよく解けない問題だということにある。
というのは、「自分探し」には多くの場合は、「ほんとうの私」をほんとうにわかってくれる他者を求めることが同時に生じることが多いからだ。
したがって「ほんとうの自分」探しと「ほんとう
の自分」をわかってくれる他者探しとは表裏一体なのである。しかし、いったい「ほんとうの私」
とはどのように理解したらよいのだろうか?
また自分のことをほんとうにわかってくれる他者との関係とはどのようなものなのだろうか?
そもそも「ほんとうの私」、ほんとうに自分をわかってくれる他者とは果たして存在するのであろうか?
この問題をめぐる疑問はなかなか底をつかない。
感想
ほんとうの自分に出会えなければ、せっかくのこの私の人生がなんとなくむなしく感じられてしまうという箇所がおもしろいと思いました。
「本当の自分」を考えても、納得いく結論は出ないような気はしますけど、こう考える人はぼくも含めて結構いると思います。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁