とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

 非対称的関係と暴力

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 暴力はコミュニケーションか?

 


暴力と悪を全般的に扱うのではない。

 


「コミュニケーションとしての暴力と悪」に話題を限定している。

 


しかし、そもそも暴力と悪をコミュニケーションの問題として扱えるのか。

 


まず、暴力から考えよう。

 


たとえば、テロという暴力はコミュニケーションでもある。

 


テロが実行されるとほとんどの場合、首謀者は犯行声明を出す。

 


ある国に敵意をもっ集団が存在すること、この集団には強力な兵力が備わっていること、徹底的にしかも不意を突いて攻撃を加える意図があること。

 


こういったメッセージを、テロ行為と犯行声明は伝えようとする。

 


しかも、テロが実行されるとテレビは大々的に取り上げる。

 


首謀者が犯行声明を述べる映像を繰り返し流す。

 


テロリスト側も、自分たちの暴力がマスメディアを占拠することをねらってテロを行なっている。

 


このように、テロはメッセージの伝達を強く意識したコミュニケーションなのである。

 


次は身近な例をあげよう。

 


たとえば、誰かがあなたを侮辱したとする。

 


あなたはとても腹が立っているが、周囲の目もあって黙っている。

 


するとあなたが黙っているのをいいことに相手は再びあなたをバカにした。

 


ついにあなたはキレて、相手を殴り倒す。

 


理由はどうあれ、殴るのは暴力である。

 


あなたは相手を無言で殴ったかもしれない。

 


けれども、そのパンチにメッセージを込めてい

たはずである。

 


「バカにするな!」や「なめるなよ!」というメッセージを。

 


テロの場合と侮辱した相手を殴る場合とでは、規模を無視すると、どちらも非対称的関係を対称の関係にしようとする試みである。

 


テロ実行犯は、テロの対象とした国家とのあいだにある圧倒的な権力格差を、テロ行為によって縮めようとする。

 


また、侮辱した相手を殴る場合、侮辱されたことでこちらは自尊心が傷ついた。ところが、相手は無傷である。

 


そこで、殴ることで相手に身体的な傷と痛みを

与える。自尊心の傷と身体の傷の違いはあるが、双方とも傷つき、非対称的関係は解消する。

 


このように、暴力は非対称性を壊すためのコミュニケーションともなる。

 


感想

 


圧倒的な権力格差を、テロ行為によって縮めようとするという箇所。

 


また、自尊心の傷と身体の傷の違いはあるが、双方とも傷つき、非対称的関係は解消するという箇所。

 


こういう側面は確かにあると思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ