とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

「夢」としてのメディア・コミュニケーション

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 

 


民主主義社会の「夢」としてのメディア・コミュニケーション

 


現実的には、どんな子どもも身近な大人の振る舞いを模倣することによって大人へと社会化されてしまう。

 


弟子は師匠を真似し、後輩は先輩を真似して仕事を覚え、一人前になる。

 


その意味では、模倣は、地域共同体や家族にお

ける「日常的な相互作用」そのものである。

 


とくに子どものママゴトは、大人の作る社会的秩序とその役割を模倣を通して、世代から世代へ継承する役割を果たしてきた。

 


ところがチャップリンの真似をする子どもの場合はどうだったろうか。

 


チャップリンが演じたチャーリーは、ぼろぼろの燕尾服を着てステッキを持ち、ブルジョワ階級に憧れるが乞食にすぎないという演技で社会秩序を笑い飛ばす反社会的存在だったはずだ。

 


つまり彼と同時代の子どもたちは、本来尊敬し、真似すべき大人を馬鹿にする道化的人物に憧れて、模倣してしまったことになる。

 


だから,「チャップリンごっこ」のなかでは、ブルジョワ的な社会秩序は想像的には転覆されていたといえるだろう。

 


あるいは、1960年代にビートルズを模倣した若者も、鉄人28号ウルトラマンを真似した私自身も、自分が普通の大人になることを超えて、別の存在に生成変化してしまう可能性を秘かに夢見ていたのだと思う。

 


むろん結局は、チャップリンを真似した子どもも、ウルトラマンを真似した私も、学校や家庭を通して平均的な大人へと規律訓練化されてしまった。

 


しかしメディア・スターを模倣した経験を通して

私たちの身体のなかには、ただ退屈なサラリーマンを演じることを超えてしまおうとするような潜在的欲望がまだ秘かに残っているように思う。

 


いやむしろ私たち大人が、日常的な相互行為の馬鹿馬鹿しい退屈さに耐えられるのは、自分がその平凡な大人以外のなにかにいつでも変身できるという夢を秘かに保持し、メディア文化を通していまもその夢の記憶をいつも喚起させられているからではないか。

 


そのようにメディア・コミュニケーションは、現代の民主主義的社会を実践的に作り出している対話的コミュニケーションである以上に、現行の社会秩序が潜在的には別の社会にもなりうるのだという、民主主義社会の改変可能性を支えている根源的な「夢」なのではないかと思う。

 


だから対人関係のなかにメディア・コミュニケーションが浸透してきたコミュニケーション社会のなかで、いま私たちがある種の閉塞感に陥っているとしたら、それは携帯電話やパソコンによるコミュニケーションに、私たちが私たちでなくなってしまうかもしれないという生成変化への超越的な夢が欠けているからだろう。

 


そして私たちが、そうしたメディアを、単なる対人関係のツールとして、民主主義的かつ主体的に使用しているからだろう。

 


だから私たちがコミュニケーションにもう一度活気を与えようとするなら、メディア・コミュニケーションが対等な対話としての民主主義のためではなく、人びとの超越的存在への生成変化の欲望を触発するために普及してきたという歴史的事実を思い出さなければならない。

 


そして、そうした憧れや夢にこそ、人間の生きていることの充実があることを思い出さなければならない。

 


メディア的な超越への夢こそが、現実にある退屈な民主主義の「対話」を、社会の底部で支えているはずなのだ。

 


感想

 


メディア・コミュニケーションに「夢」があるという見方がおもしろかったです。

 


日常生活が退屈だからだとする根拠もそうかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ