とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

スターを模倣するとは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 スターを模倣する

 


受動性の立場に歓喜する大衆たちは、ただメディアのメッセージを受けとめて喜ぶだけで、自らはなにも能動的な反応を示さないというわけではない。

 


じつは彼らは,メディア・コミュニケーションの「受け手」に特有の、ある能動的な反応を示す。

 


それは「模倣」行動である。

 


つまり人びとは、憧れのメディア・スターのポーズや歌い方や衣装を競って模倣し、自分がそのスターになりきろうと必死に振る舞ってきた。

 


1910年代にチャップリンが映画スターとして出現したとき、世界中の子どもたち(やコメディアン)は、彼を見て笑って楽しむだけでなく、彼の姿や身振りをそっくり真似して、ぼろぼろの衣装や靴を身に着け、ステッキを持ってギクシャクしたアヒル歩きをしようとした。

 


あるいは、1950 年代にエルビス・プレスリーが、続けて60年代にビートルズが出現したときにも、世界中の若者たちは、その衣装や髪型や演奏の仕方を、そっくりそのままコピーしようとした。

 


若者たちもまた、スターの音楽をただ楽しむだけでは満足できず、じっさいに自分がエルビスビートルズになったかのような気分を味わいたかったのだと思う。

 


いやそれどころかジョン・F・ケネディの「ニューフロンティア精神」やオバマの「変化」や小泉純一郎の「抵抗勢力」といった政治家のスピーチの一節が人びとのあいだで流行語となるときにも、人びとはその主張の内容を他の人びとに伝えようとしているのではなく、その魅力的な言葉を呪文のように唱えて真似してみることに喜びを感じているといえるだろう。

 


こうした模倣に取り憑かれた人びとは、自らの個性や主体性を投げ捨て、ひたすら憧れのスターに自分を同一化させようとするのだから、これほど近代民主主義社会の主体的個人という理念にとって困った存在はない。

 


だからメディア・コミュニケーションに関する議論のなかでも、大衆の模倣行動や流行現象は繰り返し画一的で全体主義的なものとして批判されてきた(むろんナチスなど全体主義の問題があることを筆者は否定しない)。

 


メディア情報の「受け手」は、ただそれを無批判に受け入れるだけでなく、情報を批判的に吟味し、対話的にメッセージを返さなければならないのだ、と。

 


しかし、模倣する人びとは、こうした生真面目な学者たちの貧困な想像力ではとらえきれない、ある種の主体性や創造性を帯びてメディア社会に出現したのだと私は思う。

 


つまり、スターを模倣することとは、人間が人間を超えて別の人間(スーパーマンウルトラマン)になってしまう可能性や、人間がいまある社会とは別の社会を作り出してしまう革命的可能性を表しているように思うからだ。

 


感想

 


「模倣」は確かに能動的な行動だと思いました。

 


また、いまある社会とは別の社会を作り出してしまう革命的可能性を表しているという、最後の所もそういう見方もできるかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ