とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

産む、産まない自由

こんにちは。冨樫純です。

 


「産む自由・産まない自由」についてのコラムを紹介します。

 


ぼくは、胎児を別個の独立した命とは考えないので、中絶する権利を自己決定権として保障するべきだと思います。

 


女性が胎児を中絶する権利を自己決定権として保障するべきか。

 


伝統的なキリスト教では、中絶は厳しく禁じられていた。

 


しかし、女性の社会進出への機会提供や自己決定権の観点から、女性解放運動の一環として、中絶自由化が唱えられ、実現されてきた。

 


アメリカでは、母体の生命を救う必要のある場合を除いて中絶を禁止していたテキサス州法の合憲性が争われた事件で、連邦最高裁は中絶する・しないは女性のプライバシー権に属するとして違憲判決を下した(1973年の有名な Roe v.Wade事件判決)。

 


しかし、この判決以後もさまざまの制約は残っており、しかも連邦最高裁はそれらの制約を必ずしも違憲とはしていない(参照、松井茂記「自己決定権について(1)」阪大法学 45巻2号 250 頁以下(1995年))。

 


中絶自由化の維持は、保守派からの攻撃にさらされ続けており、今後の展開は予断を許さない(アメリカでは、中絶手術をする医師が中絶反対派によって射殺される事件も起きている)。

 


中絶は胎児という母体とは別個独立の命にかかわるだけに、単純に母親である女性の自己決定に委ねるのは疑問である。

 


かといって、産みたくない女性にむりやり産ませるのは、運動神経のよい子どもを本人の意思にかかわりなくオリンピックの体操選手に育て上げていた、旧東側諸国のやり方と同じだろう。

 


母親と胎児が別の人格だとすれば(だからこそ母親が自由に中絶するのはおかしい、ということになる)では母親はなぜ胎児という「他人」の命を救うために、自分の人生まで狂わしかねない「産む」という行為を義務づけられなければならないのかが、説明できなくなるだろう。

 


胎児の命は母親とは別人格の生命なのだから母親の勝手にはならないと同時に母親も胎児という他人の命を救うことまで強制されるいわれはない。

 


これが、いわば中絶のパラドックスなのである。

 


さて、どうすればいいのだろう?

 


なお、生殖技術の進歩により、出生前診断(着床前診断)や代理母など、「産む、産まない」の自己決定に際して新しい選択肢が技術的には可能なものとして登場してきた。

 

 

 

出生前診断に対しては、日本産婦人科学会が重い遺伝性疾患に限定して認めるという自主規制のルールを設けているが、一部の産婦人科では、男女産み分けや染色体異常のチェックの手段として実施しており、障害者差別につながるなどの批判も向けられている。

 


代理母については、2003 年に厚生労働省の審議会が認めないとの結論をまとめ、代理出産を禁止する法律の制定の動きが見られたが、今日に至るまでそのような法律は生まれていない。

 


こうした中で、アメリカで代理出産によりわが子をさずかる不妊症の女性も出てきているが、そのようなケースでタレントの向井亜紀さんと高田延彦氏の夫妻が品川区に嫡出子としての出生届を提出したところ拒否されたとして、不服の申立てをした事件がある。

 


最高裁(2007(平成19年)3月23日決定・民集 61 巻2号 619頁)は、子の母はあくまで子を懐胎し出産した代理母の方であるとして、夫妻の請求を退けている。

 


下記の本を参考にしました

 


『いちばんやさしい憲法入門 』

  初宿 正典 他2名

  有斐閣アルマ