こんにちは。冨樫純です。
「読むことがもたらす快楽」についてのコラムを紹介します。
ぼくの読書によって、今まで知らなかったことを知り、さらに、一般的な見方を覆される時、ある種の快感を覚えます。
読むという行為においてひとは、ページをよこぎって漂流し、旅をする目はおもむくままにテキストを変貌させ、ふとしたことばに誘われては、はたとある意味を思いうかべたり、なにか別の意味があるのではと思ってみたり、書かれた空間をところどころまたぎ越えては、つかの間の舞路を踊る。
読者は、他者のテクストのなかに、快楽の策略、乗っ取りの策略をそっとはりめぐらすのだ。
そこでかれは密猟をはたらき、もろともそこに身を移し、身体の発するノイズのように、複数の自分になる。
こうしてバルトはスタンダールのテクストなかでプルーストを読むのだ。
おなじようにテレビを見る者も、時事問題の報道のなかに自分の幼年時代の一コマを読んでしまう。
書かれたものの薄い表皮が地層をゆすぶり動かし、いつしか空間のゲームに変わっていく。
作者の場所のなかに、別の世界(読者の世界)が入りこんでいくのである。
このような変化のおかげでテクストは、借家のような案配にひとが住めるところになってしまう。
日常的実践は、機会なくしては存りえない実践として、波乱の時と結ばれている。
したがって日常的な実践は、時間の流れのいたるところに散在するもの、思考という行為の状態に在るものといえるだろう。
日常的実践は絶えまない思考の身ぶりなのだ。
M. セルトー「日常的実践のポイエティーク」
私たちが書かれたものを読むとき、それは書き手が伝えようとした意味を読みとっているだけではない。
途中を飛ばしたり、読む順番を変えたり、 ふと自分の空想にひたったり、お茶を飲みにいったり と。
読む行為をめぐって、 そのなかで、また、その外で、 さまざまなことが行われているのである。
読む行為に対して、書き手が一方的に規定する力はそれほど大きくない。
そのように多方面のカや作用が行き来する力動的な世界のなかに、人びとの日々の営み (日常的実践)は存在する。
下記の本を参考にしました
『社会学』
新版 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一 他2名