とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

アイデンティティの強制力

こんにちは。冨樫純です。


アイデンティティを超えて」についてのコラムを紹介します。


自らのアイデンティティが奪われていることを告発するマイノリティの運動が、じつは、「アイデンティティをもたなければいけない」 という社会的圧力をむしろ強めてしまういう箇所にそういう側面があるかもしれないと思いました。


世代をおうごとに、在日韓国、朝鮮人とは、実体をともなった内包ではなく、あるステレオタイプを意味する言葉でしかなくなっていく。


その際、ある人が自分を指して在日韓国、朝鮮人と呼ぶとしたら、それはあるステレオタイプで語られる何者かに、自分を押し込んでいくことにほかならない。


自己が何者であるかを自己決定するのではなく、あえて他者化されるに甘んじ、分類枠内に落ち着くことで、既存の差別、権力構造を温存、助長する。


たとえ、日本に民族差別の構造が現存することを、白日のもとに照らし出し、差別に反対するために、自ら在日韓国、朝鮮人であるとカミングアウトしたとしても、だ。


差別と闘おうとして、他者化された結果できたアイデンティティステレオタイプを内在化して

しまうということに、はまってはいないだろうか。


例えば、私は在日韓国朝鮮人として生まれたのではない。


日本社会に蔓延する差別によって、また、それと闘おうとする運動によって、在日韓国、朝鮮人になった。


在日韓国、朝鮮人であることを、学習してきたのだ。


在日韓国、朝鮮人を自称することは、この日本において、ある「役割』 を自ら引き受けようとする、ささやかな宣言にすぎない。


だがそれは、日本という社会の中で、在日韓国、朝鮮人という一つの役割を引き受けただけであって、同時に、私が日本市民でもあることにかわりはない。


純粋な 「日本人」 ではなく、不純な「日本人」

だ。


こんな日本人が蔓延した時こそが、日本の単一民族国家観が終焉する時だ。


鄭咲東「(民が代〉斉唱 一アイデンティティ·国民国家·ジェンダー」 (鄭 2003: 21)


自らのアイデンティティが奪われていることを告発するマイノリティの運動が、じつは、「アイデンティティをもたなければいけない」 という社会的圧力をむしろ強めてしまうことを、筆者は鋭く指摘する。


下記の本を参考にしました


社会学

   新版 (New Liberal Arts Selection)

  長谷川 公一 他2名

  有斐閣