とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

家族を調査すること

こんにちは。冨樫純です。


「私事化する家族と社会調査」についてのコラムを紹介します。


家族、特にその関係やリアルを調査することは、どんな形であれ難しいと思いました。


社会学において具体的な事実を確認しながら調査研究を行う方法の1つに、参与観察という方法がある。


それは、調査者自身が研究対象となっている集団や事象にわけいって溶け込み、その集団の一員としてふるまいながら、そこで起こる事実や影響関係、当事者にとっての意味を、その内部の現実感覚を保ちつつ確認·表現していこうとする方法である。


参与観察はいわば突撃部隊のように現場に飛び込んで研究成果を達成しようとし、その方法はすべての集団に対して可能なように思われる。


しかし、現代日本においてこのような参与観察がほぼ困難であると予想される集団が意外なところにある。


それが家族である。


家族のなかに見知らぬ他者が社会調査と称して入ってきて、私たちと生活の起居をともにしながら観察していく。


そんな光景を想像することはできないし、そのような行動に今の家族は耐えられそうにない。


現在、家族に対する社会学的な調査研究の多くは、調査票を使用して回答してもらうものであったり、インタビューによって家族内の出来事の事実確認や当事者の意向を聞くものであり、それらによって多くの重要な研究成果が生み出されてきた。


しかし、それらの成果は、家族に対して参与観察を行って達成された結果というわけではないことが多い。

 

むしろ、 家族調査を実施しようとしたとしても、それを参与観祭によって行おうという発想すら浮かばないほうが一般的である。


なぜ、私たちは家族に対する参与観祭のイメージすらもちえないのだろうか。


現代社会において、私たちは 「公私」 という感覚をもっており、公私は各々別々な空間において営まれる世界として理解されている。


家族はそのなかの私世界を代表する集団であり、その他の集団から切り離された私事的な空間において営まれるプライベートで親密な関係として理解されている。


そう考えさせる要因の1つが、核家族が示す、親子の世代のみによって構成される関係のシンプルさである。


そのシンプルさが家族を1つのまとまりとして感じさせ、お互いに気をつかわなくてよい存在であると位置づけさせる。


そのような状況のなかに、他者としての調査者が入ってきて寝食をともにすることなど想定できない。


しかし、核家族はそのように関係がシンプルなるがゆえに、直系家族のように、家族が抱えた問題を多様な人間関係のなかに分散させて和らげることができず、直接真正面からぶつかり合ってしまうこともある。


かつて、E. W.バージェスと H.J.ロックは家族の歴史的変動過程を「制度家族から友愛家族へ」 と説き、個人の自由が法律、慣習、権威といった制度によって極度に抑圧·統制された前者の家族から、相互の愛情を基礎に平等対等の関係であることを理念とした後者の家族へと発展すると考えた。


核家族は友愛家族の1つの形として考えられるが、現代社会におけるそれはやさしさに満ちた相貌を示しつつ、もろさときつさを同居させている。


家族はプライベートな空間だから、その内部を他者に知られる必要はないと考える度合いが強くなってきている。


そのため、80年の蓄積をもち、5年に1度全数調査として日本政府が行う国勢調査でさえ、回答の拒否が急増している。


社会学が行う参与観察はおろか、家庭に調査票を置いてきて回答してもらう留置型の質問紙調査でも、家族にとっては敬遠されだしているのである。


自分にとって大切な世界であり、他者に知られたくないプライバシーをもった家族。


近代社会の形成により、私的領域に属するようになった家族の私事化がいっそう進行しつつある。


下記の本を参考にしました


社会学

   新版 (New Liberal Arts Selection)

  長谷川 公一 他2名

  有斐閣