こんにちは。冨樫純です。
「宗教は阿片? 哲学は?」についてのコラムを紹介します。
たしかに宗教には、阿片と似た側面があると思いました。
キリスト教は、貿しい人がお金持ちに抱いているルサンチマンの感情を巧みに利用して、信者を獲得した。
そればかりではなく、彼らから強く生きようとする意志をも奪ってしまった。
「貧しき人々よ、おまえたちには天国の門が開かれているのだから、安心して信仰の道に入りなさい」と説教し。
ニーチェはそのような論理で、キリスト教を激しく批判しました。
同様の主旨のことをマルクスは、次のように述べています。
「宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の神である。それは民衆の阿片である」(『ユダヤ人問題によせてヘーゲル法哲学批判序説」より)
この論文は、マルクスが25歳のとき、1843年に執筆しています。
それは阿片戦争の直後のことでした。
マルクスは宗教の持つ特徴を、麻薬である阿片の効果になぞらえて表現したように思われます。
ケシの実がら採取した果汁を乾燥させ、その粉末に点火して喫煙することで得られる陶酔感や催眠作用、その心地よさを、「心なき世界の心情」「精神なき状態の精神」と表現したのです。
宗教はこのような心のやすらぎを与えることによって、専制支配の下で苦しむ民衆に忍従を説いているのであると、マルクスは批判したのでした。
その論旨はニーチェととてもよく似ています。
世の中から理不尽なことはなくならない。
だから、心を癒してくれる麻薬にも似た働きが人の心には必要なのだ。
そしてそのような役割を持つのが宗教であり、哲学との相違点であると考える人もいます。
けれども一つの理論を信じることで、確固として生きる自信や喜びを得られるとすれば、たとえば、いずれは労働者階級が世界を支配するのだと考えたマルクス主義の哲学もまた、宗教と似ている側面を多く有していたように思います。
哲学と宗教の境界線を探すこと。それはどのような時代においても決着がつけがだい難題です。
ちなみに、阿片を採取するケシの栽培は、すでにBC3400年頃からメソポタミア地方で行われてい
たという記録があります。
阿片の使用目的は、鎮痛剤や睡眠剤が中心でした。
麻薬としての使用が一般化したのは、さほど昔ではありません。
日本では1954年に「あへん法」が成立し、それ以後、阿片の採取や所持、輸出入、売買が禁止されました。その頃までは日本のあちこちで、紅や白、紅紫や紫の美しいケシの花を見かけることができたのです。
下記の本を参考にしました
『哲学と宗教全史』
出口 治明著