こんにちは。冨樫純です。
「産学官の連携の重要性」についてのコラムを紹介します。
このコラムを読んだだけでは、重要性や必要性が感じられなかったので、調べてみたいと思いました。
かつて工業技術院研究所という組織があった。
通産省(現在の経済産業省)、産業界との共同研究等を通じた産業技術力の強化がその任務であった。
実際、戦後から高度成長期にかけて、諸外国の先端技術をもとにそれを「和訳」して民間企業に移転することで、産業界の研究開発能力の同上に貢献したきた。
しかし、経済成長にともない民間企業が研究開発能力を自ら身につけてきたことや、研究所が筑波に移転したことによって、工業技術院研究所は産業界と断絶状態となり、存在理由を次第に失っていった。
ところが、他方で、長期的には技術革新サイクルの加速化、研究開発投資の膨大化中期的にはバブル崩壊後の企業業績の悪化にともなって、民間企業が単独で研究開発を行い、新製品新事業を生み出すことが困難となってきた。
産学官の連携の重要性があらためて増してきたのである。
このような情勢の中で、工業技術院研究所のあり方が見直されるようになった。
そして、2001(平成13)年4月、独立行政法人として産業技術総合研究所に改組された。
独立行政法人の組織としての性格が何であれ、組織の中で仕事をし、生活の糧を得ている多くの職員にとって、組織の性格を変えるというのは、大変なことである。
3000人を擁する大組織であり、労働組合も警戒する。
さらに工業技術院研究所の場合、多くの研究者がそこにおり、彼らは短期間で業績を評価されることを嫌う。
地道な研究の積み重ねによってはじめて成果が出るものであり、独立行政法人の評価期間である6年という短い期間で評価されては、たまらないという思いがある。
それにもかかわらず、独立行政法人化が行われた。推進したのは通産省である。
このような改革が本当に日本の科学技術の向上にブラスに作用するか否かはわからないが、改革がなされたのは確かである。
どうしてこのような改革が実現されたのであろうか。
改革の当事者たちの証言によれば、いくつかのポイントがあったようである。
第1は、政策立案の出発点に独立行政法人化という政策があったことである。
工業技術院研究所が時代遅れになっているという認識は、かなり以前からあった。これを何とかしなければならない、という意識もあった。
しかし、実際に工業技術研究所の改革が具体的に検討されるようになったのは、橋本行革の中で独立行政法人というアイデアが出てきてからである(解決策の先行)。
第2に、反対勢力に対しては、ひとり工業技術院研究所の改革の問題ではなく、日本における大学を含めた研究組織さらには行政機関全体の改革の問題ととらえていべきことを強調した。
そうすることによって、研究所員の改革意欲を引き出すとともに、メディアの注目を得た(争点の再定義)。
第3に、政策を実行する段階においては、通産省内の担当課の中で、職員の間に業務量の調整や業務の優先順位づけが行われた。
工業技術院研究所の問題だけを扱っているわけではないので、課内のリソースをどのように振り分けるかは重要な課題である。
だれがどのような順番で休暇をとるかまで考えたという(実施過程の重要性)。
政策と一口に言っても多様なものがある。上であげた例は、既存の組織を変える(リストラクチャリング) というものである。
全く新しい政策をつくるというのもあれば、前年の政策を継続するというものもある。
下記の本を参考にしました
『政治学』補訂版
(NewLiberalArtsSelection)
久米 郁男 他2名
有斐閣