こんにちは。冨樫純です。
「ウィーン会議の再評価」についてのコラムを紹介します。
ウィーン会議のマイナスイメージが変わりました。
「会議は踊る、されど進ます」と皮肉られ、各国の自由主義やナショナリズムを弾圧し、「正統主義」と「勢力均衡」を原則とする保守的·反動的体制を取り決めたウィーン会議。
ウィーン会議の結果、たしかにドイツの学生運動は弾圧され、イタリア人が居住する北イタリアはドイツ系のオーストリアが支配し、ベルギーはオランダの支配下におかれ、ポーランドはロシアの勢力下におかれた。
オーストリア国内でもきわめて厳しい検閲制度が実施され、たとえば自由主義的な考え方をもつ友人がいた作曲家のシューベルトは、集会の時に警察に踏みこまれ、一晩留置場に留めおかれた。
ところが、最近になって、この時代の別な側面が指摘されるようになった。ウィーン会議が、200万人に達するといわれる死者をだしたフランス革命戦争· ナポレオン戦争の大混乱期を収拾し、秩序を回復し、ギロチンに代表される恐怖政治の脅威をとりさり、ナポレオン軍による侵略行為も消滅させ、ヨーロッパに一時的ではあれ、一応の平和をもたらしたことを再評価するのである。
メッテルニヒは、まさにその立役者であった。
文化面でもドイツやオーストリアで、ピーダーマイヤーとよばれる、身近で日常的なモノに目をむけようとしてうまれた独自な市民文化が展開し、人びとは平和を享受している。
当時の外交の世界は、愛を語り、芸術を論じながら政治をおこなう時代であった。
メッテルニヒは、プロイセンの外交団の一員であったフンボルトと長々と哲学的な論議を続けることができたし、蒸気船や電信などの技術革新にも関心を示し、文学にも精通していた。
ゲーテやシラーのドイツ文学だけでなく、フランスのヴォルテール、モンテーニュ、パスカルなどの書も読破している。
数百の詩のなかから必要な詩をたちどころにそらんじ、音楽を好み (とくにロッシーニ)、バイオリンも弾いた。
この文化的素養は家柄の重視とともに18世紀「古
き良きロココ時代」の貴族社会の特徴であり、当時の政治家たちにも共通するものであった。
ウィーン会議は、この貴族社会の享楽的·教養主義的性格がそのまま実践された場所でもあった。
下記の本を参考にしました。
『新 もういちど読む 山川世界史 』
「世界の歴史」編集委員会 (編集)
山川出版社