とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

すべての人間関係は売春である

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


すべての人間関係は売春である

 


なぜ売春は合法化されないのだろうか?

 


売春合法化に反対する議論にはなんの根拠もない

が、これまで権威ある学会から「非科学的な議論はご遠慮ください」と批判されたことはいちど

もなかった。

 


売春のようなセックスの売買と、パイーミルクのようなそのほかの取引とのちがいは、「性を買う」ことについてわれわれが感じる、あるいは感じさせられるある種の羞恥心に関係している。

 


よく知られたジョークをひとつ紹介しよう。

 


あるハンサムな男性が魅力的で貞淑な女性を、 「一億円出すから僕と寝てよ」と口説いた。

 


彼女はこの申し出に仰天するが、そのあとで考え直す。

 


「お金で寝るのは売春婦と同じだけど、そのお金を慈善事業に寄付するとか、世の中の役に立つことに使ったりとかできるじゃない」

 


その男性はチャーミングだし、あやしげでもなければ、不愉快でもない。そこで彼女は恥ずかしそうに、「いいわ」とこたえる。

 


次に、男性はこう訊ねる。

 


「だったら一万円でどう?」

 


彼女は激怒して、「よくもそんなことが言えるわね。 わたしをどんな女だと思っているの!」

 


と、男の顔を平手で叩く。すると彼は、こうこたえるのだ。

 


「君は金で寝る女だろ。自分でそう言ったじゃないか。だから僕は、値段の交渉をしようとしただけなのに」

 


言うまでもなく、この男が放つ言葉の暴力は、セックスを売ることに対する世間の侮蔑を背景にしている。

 


「性を売買するのは堕落である」と信じる人たちに対抗する方法は二つある。

 


ひとつは正面攻撃で、 「セックスを金で買うのは間違っている」という信念をただ否定するのである。

 


だがこれでは、売春を不道徳だと見なす人々を納得させることはできないだろう。

 


もうひとつの方法は、わたしたちは常に―だれもがいつでもセックスを金で買っており、それゆえプロの売春婦と客のやりとりにケチをつける資格はない、と示すことである。

 


わたしたちが性的活動を行う際、常に取引や金銭の支払いが発生していると、どのような意味で言えるのだろうか?

 


少なくともわれわれは、セックスについて合意する前に、パートナーに対してなんらかの申し出をしなければならない。

 


売春においては、この申し出は現金の提供によって行われる。

 


それ以外の場合は、取引はそれほど明示的ではない。だがデートマニュアルのほとんどは、明らかに売春モデルに基づいている。

 


男性は映画やディナーや花束などに金を支払うことが期待され、女性は性的サービスの提供で報いることが期待されている。

 


結婚についても、夫が経済的側面を担い、妻がセックスと家事労働を担当するのであれば、売春モデルとなんのちがいもない。

 


わたしがここで言いたいのは、恋愛から学問にいたるまで、人間同士の自発的な関係はすべて取引だということだ。

 


ロマンティックな恋愛や結婚においては、取引は愛情や思いやり、やさしさなどを介して行われる。その取引は幸せなものであろうし、互いに与え合うことに喜びを見出すであろう。

 


しかし、それでもやはりこれは取引なのである。

 


冷酷な相手に愛情や思いやりを一方的に与えているだけでは、報われないことは明らかである。

 


取引のあるところには報酬がある。夫婦にせよ、恋人同士にせよ、そこにセックスと報酬の関係があるのなら、それは言葉の定義上、売春の一種なのである。

 


この世のすべての取引は、セックスの有無にかかわらず売春の一形態である。

 


売春と類似するからといって、これらすべての関係を否定するのは馬鹿げている。

 


そうではなくて、売春を人間の行う相互作用のひとつにすぎないととらえるべきである。

 


結婚についても、友情についても、売春についても、それでなんの異論もないはずだ。

 


感想

 


恋愛から学問にいたるまで、人間同士の自発的な関係はすべて取引だということだという箇所がおもしろかったです。

 


売春も取引なので、非難されることはないという、そうかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)

 

 

 

 

 

 

 

セクハラを擁護する

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


セクハラを擁護する

 


一般に「セクハラ」と呼ばれている行為について検討してみよう。

 


道を歩く女性に口笛を吹いたり、いやらしい目つきで眺めたり、卑猥な言葉を投げつけたり、嫌がる相手に言い寄ったり(とはいえ、相手が嫌がるかどうかあらかじめ知るのは、しばしば非常に困難である)することを指すのだろうが、こうした行為は、言葉の厳密な意味で、暴力による権利の侵害をともなってはいない。

 


ところがたいていの人は、とくに「女性の権利を守る」と称する人たちは、こうしたセクハラと、レイプのような暴力的な権利の侵害を区別しない。

 


もちろん、どちらも女性にとっては不愉快きわまりない出来事であろう。

 


だが、そのちがいは決定的である。

 


物理的な暴力をともなわない 「セクハラ」は、これ以外にもたくさんある。

 


女性フライトアテンダントを「スッチー」と呼んだり、満員電車でAV嬢の裸の写真が載っているスポーツ新聞を広げたり、会社のパソコンのデスクトップをビキニ姿のアイドルにしたり、30歳すぎの女性に「君って負け犬?」と訊いたり、会社の男同士で女性社員の美人ランキングをつけたり。

 


こうした、暴力的ではないが攻撃的ではあるかもしれない態度や振る舞いについて、考慮すべき重要な点は二つある。

 


第一は、こうした非暴力的な行動を法律で禁止してはならない、ということである。

 


もしそのようなことになれば、基本的人権に対する大規模な侵害が引き起こされることになるだろう。

 


言論の自由」とは、それがいかに卑猥で低能で悪趣味で神経を逆なでするようなものであろうとも、人は言いたいことを言う権利がある、ということなのだ。

 


第二の点はもうすこし複雑で、ほとんど気づかれることはないのだが、こうした非暴力的な女性差別は、国家権力の影響下にある場所で発生する確率がずっと高い、ということである。

 


公共の場所、たとえば公園や歩道や官公庁や特殊法人や各種公共団体や国公立学校などを考えてみよう。

 


これらは国家が国民から暴力的に徴収した税金によってつくられ、運営されているのだが、もしもこうした悪弊が一掃されるならば、自由な市場の力を得て、世の女性たちを悩ます数々のセクハラ行為はずっと少なくなるにちがいない。

 


具体的な例で考えてみよう。

 


ここに嫌味なセクハラ上司がいたとする。この男は女性社員の胸やお尻をいやらしい目つきで眺めたり、鼻くそをほじりながら卑猥なジョークを飛ばしたり、「合コンをやろう」としつこくき誘ったりする。

 


次に、このサイテーな上司が民間企業の管理職であった場合と、どこかのお役所の課長であった場合とを比較する。

 


その際に利用するのは、経済学で言う「補填格差」の考え方である。

 


補填格差は、「職務に付随する心理的な損失を埋め合わせるのに必要な金額」と定義できる。

 


たとえば、あなたが次の二つの職場から好きなほうを選べるとしよう。ひとつは、エアコンの利いた眺めのよいオフィスで、環境も抜群だし同僚も好い人ばかりだ。

 


もうひとつは、じめじめとした地下室で、敵意に満ちた同僚に囲まれている。

 


このような場合、 あなたが後者の仕事を選ぶ

とするならば、かなりの額の追加報酬を期待するはずだ。

 


いくらもらえば嫌な仕事をやろうと思うかは人によって異なるだろうが、奇人変人の類でないかぎり、同じ条件で不利な職場を選ぼうとは思わないだろう。

 


じめじめとした地下室ではたらく労働者を雇うためには、経営者は相応の補填格差を埋め合わせるための金銭をこの人に支払わなければならない。

 


同様に、セクハラ上司の下ではたらく女性社員にも、この補填格差は発生する。

 


セクハラが常態化している企業が、女性社員に快適な職場を提供している企業と同等の優秀な人材を確保しようと思うならば、かなりの額の給料を上乗せしなければならないだろう (キャバクラ嬢のような女性社員を高給で雇う、とか)。

 


民間会社の管理職の場合も話は同じだ。セクハラ上司は、出張のたびにブランド物のバッグや時計を買ったりして、この補填格差を自分のポケットマネーで埋め合わせなければならない。

 


さもなければ有能な部下に愛想をつかされ、昨今の厳しい世の中では、ライバルとの競争に敗れて、女性社員にリストラされる運命が待っているだろう。

 


したがってこの上司は、セクハ快適に仕事をしてもらおうと努力する強い経済的動機を持つ。

 


しかしこのセクハラ男が公務員であれば、話は別である。

 


役人は部下から嫌われてもクビになることはない。仮に補填格差のぶんだけ賃金を引き上げたとしても、その原資は税金なのだから自分の懐は痛まない。

 


彼にはセクハラをやめる理由はなにひとつないのだ。

 


これが役所や公共団体や国公立学校で悪質なセクハラが頻発する理由である。

 


同様に、職にあぶれた茶髪の若者たちが通りがかりの女性に口笛を吹いたりやじを飛ばしたり卑猥な言葉を投げつけたりする状況を考えてみよう。

 


あるグループは路上や公園など、公共の場所でこうした行為を行う。別のグループはテーマパークやショッピングモールなど民間の場所で行う。

 


この合法だがうっとうしい行動は、どちらの条件下で抑制されやすいのだろうか。

 


公共の場所では、嫌がらせをやめさせることの経済的な利益はまったく存在しない。

 


彼らの行為が法を犯してはいない以上、警察官も見て見ぬふりをするだけだろう。

 


しかし民間の場所では、女性(あるいは女性への嫌がらせを不快に思う男性)を雇用したり顧客にしたいと考えるすべての経営者は、愚かな若者たちの行動をやめさせる強い金銭的な動機を持っている。

 


その結果、こうした不快な嫌がらせは、常に路上や公園などの公共の場所で起こり、デパートやレストラン、ショッピングモールなど、金儲けを追求し、決算の数字を気にしなければならない場所ではほとんど発生しないのである。

 


感想

 


セクハラ公務員が話題になることがありますが、その理由か書かれていました。

 


そういう側面もあるかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)

 

 

 

 

 

 

 

レイプ犯は甘やかされているか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


レイプ犯に極刑を求める人たち

 


殺人を別にすれば、女性に対して行使されるもっとも忌まわしい暴力はレイプである。

 


しかし男性優位の社会では、 強姦が常に犯罪として処罰されるわけではない。

 


理不尽なことに、夫が妻を無理矢理犯しても、たいていは違法と見なされないのだ。

 


結婚という「聖域」の外側であれば、レイプは違法行為とされているように見える。だが、法がレイプ被害者を扱うやり方はじつにひどいものである。

 


強姦者と被害者が以前つきあっていたことがあれば、裁判所は「それは恋人同士の諍いにすぎない」と言う。

 


レイプがあったことを証明するために、犯罪の目撃者を要求されることもある。

 


強者の友人が被害者と性的関係を持っていたと証言すれば、彼女は裁判官から「ふしだらな女」と見なされ、有罪判決を勝ちとることは非常に困難になる。

 


もし被害者が売春婦なら、有罪判決などまったく不可能だろう。強姦された売春婦の法的無力さの背後にあるのは、「ほかの男とは喜んで寝ているじゃないか」という恐るべき偏見である。

 


「女性の権利を守る」運動をわたしが支持する理由は、それがレイプ犯に重罪を科すことと、被

害者への十分な賠償を求めているからである。

 


「人権」を錦の御旗のごとく振りかざす人々(リベラルとか左派)は、アダルトチルドレン(親による幼児期の虐待などの被害者) なる珍妙な理屈を振り回してレイプ犯をずっと甘やかしてきた。

 


そもそも彼らの見解では、レイプを含めたあらゆる犯罪は貧困や家庭崩壊や社会の無関心によっ

て引き起こされたものということになる。

 


それゆえ彼らの主張する 「解決法」は、より多くの生活保護であり、貧困地区に公園や遊び場をつくることであり、犯罪者へのカウンセリングやセラピーであり、その他もろもろの愚にもつかないことであった。

 


それに比べて、フェミニストたちの「レイプ犯を極刑に!」という叫びがいかにさわやかな響きを持っていることか。

 


感想

 


レイプ犯に対する処罰が甘いように感じる理由がわかりました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

 

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世の中は 「ぼったくり」で溢れている

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


世の中は 「ぼったくり」で溢れている

 


ポン引きのおかげで彼女は客を探すのに無駄な時間を割く売春婦にとっても同様に利益がある。

 


望ましからぬ客や警察-その仕事は成人した男性と女性が合意のもとに自発的な取引を開始するのを邪魔することだ から守られてもいる。

 

 

 

デートサービスの会社に所属していれば、売春婦は客を見つけるのに盛り場でうろうろしたりバーをはしごしたりする必要もないから、その意味でもずっと安全だ。

 


売春婦がポン引きから搾取されていると言うならば、工場経営者もその商品でひと儲けを企むセールスマンから搾取されているし、新しい役を見つけてもらうためにギャラの何パーセントかを支払う女優もエージェントにぼったくられている。

 


これらの例では、雇用者(売春婦・工場経営者・女優)は被雇用者(ポン引き・セールスマン・エージェント)のサービスを利用して、彼らを雇うコストよりもずっと多く稼いでいる。

 


もしそうでなければ、彼らの間に雇用者―被雇用者関係は成立しないはずだ。売春婦―ポン引き関係(つまりは雇用者―被雇用者関係)も、同様の相互利益を生んでいるのである。

 


プロのポン引きは、ブローカーとして必要不可欠な役割を果たしている。

 


だとすれば、彼は銀行や保険会社や証券会社などのほかのブローカーよりもずっと尊敬されるべきである。

 


社会的に認められたブローカーは既得権を保障するさまざまな法律を頼みにしているが、ポン引きには自らの地位を守るために利用できるものなどひとつとしてないのだから。

 


感想

 


資本主義社会では、搾取やぼったくりは当然だと思いました。

 


ぼったくりを非難するのは、説得力は欠けると思います。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

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 講談社

 

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売春は非難されるべきことか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


すべての人間関係は売春である!?!?!!

 


なぜ売春は合法化されないのだろうか?

 


売春合法化に反対する議論にはなんの根拠もない

が、これまで権威ある学会から「非科学的な議論はご遠慮ください」と批判されたことはいちど

もなかった。

 


売春のようなセックスの売買と、そのほかの取引とのちがいは、「性を買う」ことについてわれわれが感じる、あるいは感じさせられるある種の羞恥心に関係している。

 


よく知られたジョークをひとつ紹介しよう。

 


あるハンサムな男性が魅力的で貞淑な女性を、 「一億円出すから僕と寝てよ」と口説いた。

 


彼女はこの申し出に仰天するが、そのあとで考え直す。

 


「お金で寝るのは売春婦と同じだけど、そのお金を慈善事業に寄付するとか、世の中の役に立つことに使ったりとかできるじゃない」

 


その男性はチャーミングだし、あやしげでもなければ、不愉快でもない。そこで彼女は恥ずかしそうに、「いいわ」とこたえる。

 


次に、男性はこう訊ねる。

 


「だったら一万円でどう?」

 


彼女は激怒して、「よくもそんなことが言えるわね。 わたしをどんな女だと思っているの!」

と、男の顔を平手で叩く。

 


すると彼は、こうこたえるのだ。

 


「君は金で寝る女だろ。自分でそう言ったじゃないか。だから僕は、値段の交渉をしようとしただけなのに」

 


言うまでもなく、この男が放つ言葉の暴力は、セックスを売ることに対する世間の侮蔑を背景にしている。

 


「性を売買するのは堕落である」と信じる人たちに対抗する方法は二つある。

 


ひとつは正面攻撃で、 「セックスを金で買うのは間違っている」という信念をただ否定するのである。

 


だがこれでは、売春を不道徳だと見なす人々を納得させることはできないだろう。

 


もうひとつの方法は、わたしたちは常に―だれもがいつでもセックスを金で買っており、それゆえプロの売春婦と客のやりとりにケチをつける資格はない、と示すことである。

 


わたしたちが性的活動を行う際、常に取引や金銭の支払いが発生していると、どのような意味で言えるのだろうか?

 


少なくともわれわれは、セックスについて合意する前に、パートナーに対してなんらかの申し出をしなければならない。

 


売春においては、この申し出は現金の提供によって行われる。

 


それ以外の場合は、取引はそれほど明示的ではない。だがデートマニュアルのほとんどは、明らかに売春モデルに基づいている。

 


男性は映画やディナーや花束などに金を支払うことが期待され、女性は性的サービスの提供で報いることが期待されている。

 


結婚についても、夫が経済的側面を担い、妻がセックスと家事労働を担当するのであれば、売春モデルとなんのちがいもない。

 


わたしがここで言いたいのは、恋愛から学問にいたるまで、人間同士の自発的な関係はすべて取引だということだ。

 


ロマンティックな恋愛や結婚においては、取引は愛情や思いやり、やさしさなどを介して行われる。

 


その取引は幸せなものであろうし、互いに与え合うことに喜びを見出すであろう。

 


しかし、それでもやはりこれは取引なのである。

 


冷酷な相手に愛情や思いやりを一方的に与えているだけでは、報われないことは明らかである。

 


取引のあるところには報酬がある。夫婦にせよ、恋人同士にせよ、そこにセックスと報酬の関係があるのなら、それは言葉の定義上、売春の一種なのである。

 


この世のすべての取引は、セックスの有無にかかわらず売春の一形態である。 

 


売春と類似するからといって、これらすべての関係を否定するのは馬鹿げている。

 


そうではなくて、売春を人間の行う相互作用のひとつにすぎないととらえるべきである。結婚についても、友情についても、売春についても、それでなんの異論もないはずだ。

 


感想

 


「性を売買するのは堕落である」とは個人的には思えません。一種の取り引きだと思うので。

 


また、不道徳であるという批判は反論しづらいと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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売春婦は悲劇のヒロインか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


売春婦を悲劇のヒロインに仕立て上げるのはだれ?

 


女性の権利を守る団体とか、宗教関係の方々とか、市民運動家のみなさんとか、世の中の良識あるすべての人々から際限のない嫌がらせを受けながらも、売春婦(売春夫)は今日も元気に商売に励んでいる。

 


彼ら彼女らが提供するサービスに高い価値があることは、法的な規制や道徳的な批判にもかかわらず、人々がソープランドやデートクラブにせっせと通っているという事実によって証明されている。

 


売春とは、「金銭を介した性的サービスの自発的な取引」と定義できる。この定義の本質は、「自発的な取引」、すなわち「好きでやっている」ということにある。

 


ちょっと前の話だが、わたしはノーマン・ロックウェル(1940~50)年代に人気を集めたアメリカのイラストレーターが描いたある雑誌の表紙を見ていて、「これこそ売春の本質だ」と得心したことがある。

 


それはミルクマン(牛乳売り)とパイマン(パイ売り)が相手のトラックの前でがつがつとパイを食べ、牛乳を飲んでいる絵であった。

 


この二人が喜んで「自発的な取引」を行っていることは、だれの目にも明らかである。

 


十分な想像力を欠いている人は、売春婦が客を楽しませることと、ミルクマンとパイマンの話のあいだにどんな関係があるのか、不思議に思うだけかもしれない。

 


だがちょっと考えてみてほしい。

 


いずれの場合でも、二人の人間が自らの意思で集い、お互いの利益を満たすべくある取引に同意している。

 


どちらの場合も、そこで強制や不正が行われているわけではない。

 


もちろん売春婦の客は、あとから自分の受けたサービスが支払ったカネに見合わないと後悔するかもしれない。

 


逆に売春婦が、提供したサービスの割に報酬が少なすぎると文句を言うこともあるだろう。

 


だが同じような不満は、ミルクとパイの交換でも起こりうる。

 


ミルクは腐りかけて済みっぱいかもしれないし、パイは生焼けかもしれない。こうした後悔はいずれも事後的なもので、「取引が自発的に行われた」という事実を否定するものではない。

 


もしも参加者にその気がなかったなら、そもそも取引は行われなかったであろうから。

 


「女性の権利を守る」と称する活動家たちのように、貧しくも虐げられた売春婦の苦境を嘆き、彼女たちの人生を屈辱的で搾取されたものと考える人々もいる。

 


しかし売春婦は、セックスを売ることを屈辱的とは考えていないだろう。

 


ビジネスの長所短い労働時間、高い報酬と短所(警

官の嫌がらせ、ポン引きに支払う仲介料、気の滅入るような職場環境)を考慮した結果、売春婦は自

らすすんでその仕事を選んでいるのである。

 


でなければ、つづけるはずがない。

 


もちろん売春婦の体験には、「ハッピーな売春」とはいかないさまざまなネガティヴな側面がある。

 


シャブ中になったり、ポン引きに殴られたり、あるいは売春宿に監禁されることもあるかもしれない。

 


だがこうした暗鬱な側面は、売春という職業の本質とはなんの関係もない。

 


脱走犯に誘拐され、治療を強制される医者や看護師だっているだろう。

 


シャブ中の大工もいるし、強盗に襲われる経理課長だっているが、だからといってこれらの職業がうさんくさいとか、屈辱的だとか、あるいは搾取されているということにはならない。

 


売春婦の人生は、彼女が望むほどによかったり悪かったりするだけだ。

 


彼女は自ら望んで売春婦になり、嫌になればいつでも辞める自由がある。

 


それではなぜ、売春婦への嫌がらせや法的禁止が行われるのか?

 


その理由を顧客に求めるのは間違っている。

 


彼は自らすすんで取引に参加している。

 


もしあなたに贔屓の女の子がいたとしても、その気がなくなれば店に通うのをやめることができる。

 


同様に、売春禁止は売春婦自身が望んだのでもない。彼女たちは好きでこの商売を選んだのだし、心変わりすればいつでも辞められる。

 


売春禁止に熱心なのは、この取引には直接の関係がない 「第三者」である。

 


時と場合によって、売春に反対する理由は異なるだろうが、そのすべてに共通するのは彼らが部外者だということだ。

 


彼らは取引に対してなんの利害関係も持たず、なんの権限もなく、無視されるのが当然である。

 


売春問題に彼らの介入を許すのは、ミルクマンとパイマンの取引に通りすがりの者が口を出すのを許すのと同様に、馬鹿げている。

 


ではなぜ、この二つのケースは扱いが異なるのか?

 


「上品に食べよう会」と名乗るカルト集団が存在するとしよう。彼らは「パイとミルクをいっしょに食べるのは神への冒漬である」とかたく信じている。

 


もし仮に「反パイーミルク同盟」と「反売春同盟」がまったく同じ学問的価値―と言ってもなにもないのだが―を持つことが示されたとしても、両者に対する反応は異なったままだろう。

 


「反パイーミルク同盟」は世間の冷笑を浴びるだけだろうが、売春禁止を主張する人々はずっと寛大な扱いを受けるにちがいない。

 


ここには、売春問題を知的に理解することを頑強に阻むなにかがある。

 


感想

 


たしかに、第三者が口を出すことでもない問題ではあると思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

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 講談社

 

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日本は役人天国か

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


日本がリバタリアン国家になったら…

 


厚生労働省特殊法人である雇用・能力開発機構は、10億円以上を投じて建設したり、リゾート施設を10万円で売却するなど、勤労者の福祉を目的に全国に建設した宿泊施設・体育館など全2070施設の大半を二束三文で売り払っているが、破格の好条件の背後で全職員の再雇用を地元自治体に要求していた。

 


「労働者の雇用を守るべき公的機関がリストラを実施するわけにはいかない」からだという。 

 


大阪市では長年、市職員の協力を得るためのヤミ給与、カラ残業、ヤミ年金が常態化し、バス運転手の給与が年収1400万円を超え、社会問題になったスーツ無料支給ばかりか、長期勤続や結婚記念日、子どもの誕生記念など冠婚葬祭のたびに旅行券・図書券・観劇スポーツ観戦券、 祝い金・弔慰金が贈られていた。

 


そのうえ職員互助組合は交付金で、豪華な福利厚生施設を建設し、それを市に寄付して固定資産税を逃れてもいた。

 


ところが、市職員やOBは、ヤミ給与・ヤミ年金、各種福利厚生の廃止に対して「すでに全額受給した人と比べて不公平」と猛反発しているという。

 


バブル崩壊とその後の長い不況を経て、役人天国”日本でもようやく公務員の実態が白日の下にさらされるようになったが、それでも人々はまだ「ありうべき公僕」を求めている。

 


よき公務員の条件とは、すぐれた能力と自己犠牲の精神によって国家の発展と国民の幸福のために献身することだ、と。

 


一部の堕落した役人を矯正すれば、いずれは福祉の向上に邁進する真の公務員に生まれ変わるにちがいない。

 


しかしリバタリアンは、こうした牧歌的な偶像を完膚なきまでに破壊する。彼らは市民から問答無用で税金を取り立て、公金を横領し、利権を漁り、いったん手にした既得権を絶対に手放そうとはしない。すなわち、公務員は市民社会の敵なのだ。

 


感想

 


おもしろい見方だと思いました。

 


公務員天国と言われる理由もわかりました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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